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  • 新宿区について しんじゅくく新宿区国 日本地方関東地方都道府県東京都団体コード13104-1面積18.23km2総人口325,752人(推計人口、2012年4月1日)人口密度17,870人/km2隣接自治体千代田区、港区、文京区渋谷区、中野区、豊島区区の木けやき区の花つつじ区の未来特使鉄腕アトム新宿区役所区長中山弘子所在地〒160-8484東京都新宿区歌舞伎町一丁目4番1号外部リンク新宿区■ ― 区 / ■ ― 市 / ■ ― 町・村ウオッちず Google Map bing geohackmapfan yahoo navitime ゼンリン特記事項新宿区旗;;新宿区(しんじゅくく)は、東京都の特別区のひとつで、23区西部に区分される。郵便番号(上3桁)160・161・162・163・169目次1 概要2 地理2.1 地勢3 歴史3.1 沿革3.2 区名由来3.3 過去の出来事4 地域4.1 区内の地域4.2 行政区域4.3 住居表示と町名保存4.4 区内の町名4.5 消滅した町名4.6 隣接する自治体4.7 区域の変更5 区政5.1 区長5.2 区議会5.3 シンボル5.4 友好都市・提携都市5.5 主要区政6 交通6.1 鉄道6.1.1 鉄道路線6.1.2 鉄道駅6.1.3 廃止された鉄道6.2 道路6.2.1 高速道路・国道・東京都道6.2.2 建設中・計画中の道路6.2.3 新宿区内の愛称道路6.2.4 東京都庁周辺の道路6.3 交通網整備の沿革7 人口8 商業8.1 新宿地区9 機関・施設9.1 新宿区の機関9.2 警察・消防9.3 東京都の機関9.4 官公庁9.4.1 出先機関9.5 在日外国公館9.6 電気・ガス・水道9.7 郵便局9.8 病院9.9 文化施設9.9.1 博物館9.9.2 図書館9.9.3 多目的ホール9.9.4 スポーツ施設9.9.5 公園9.10 住宅施設10 教育10.1 大学10.2 専修学校10.3 高等学校10.4 中学校10.5 小学校11 名所・史跡・文化財12 新宿区ゆかりの人物・作品12.1 著名な出身者12.1.1 文化12.1.2 自然科学12.1.3 芸能12.1.4 放送12.1.5 スポーツ12.1.6 政治12.1.7 行政12.2 ゆかりの人物12.2.1 新宿区名誉区民12.2.2 居住・在住12.3 ゆかりの作品12.3.1 古典12.3.2 テレビドラマ12.3.3 テレビアニメ12.3.4 漫画12.3.5 小説12.3.6 評伝・エッセイ12.3.7 絵本・児童書12.3.8 映画12.3.9 ゲーム12.3.10 歌謡曲12.4 事件13 ナンバープレート14 脚注15 外部リンク 概要西新宿の超高層ビル群東京都に23存在する特別区の一つであり、23区の中央やや西側に位置する。1991年(3年)より東京都庁は同区に位置する[1][2]。ただし、地図上での都庁所在地の表記は、慣例的に「東京」となっている[2]。本来、山の手とは新宿区内を中心とした高台(武蔵野台地)を指す。かつての35区が22区(のち23区)に移行した1947年(22年)に発足した区であり、行政機構としての歴史は比較的浅い。また、3つの区が「寄り合い所帯」となって誕生した経緯から、個性に富んだ地域が区内に点在する。古くは甲州街道の通り道として栄えた新宿地区は日本一の大繁華街が形成されており、新宿駅は鉄道各路線のターミナルのため昼夜の人口増減が特に著しい。かつては都心のベッドタウンとして人口が急激に増えた北部の落合地区は住宅地となっている。旧牛込区である東部は戦災被害が比較的軽かったため戦後の再開発とは無縁で、古くからの住民によるコミュニティが続く。(四谷地区とともに、江戸時代の武家屋敷に由来する町名も多数残っている。)また、南部は新宿御苑や神宮外苑があり、緑が豊富である。このほか、早稲田大学や東京理科大学など大学・学校も多い。慶應義塾大学病院や東京医科大学病院、東京女子医科大学病院などの大学病院、国立国際医療研究センター戸山病院などの大病院も集積している。また、新宿区は都内で最も外国人登録者が多い区である。(外国人のなかでもとりわけ、韓国人と中国人が多数居住している。特に大久保、大久保駅、新大久保駅周辺から職安通りにはコリアタウンをはじめとする、外国人コミュニティが形成されている。)新宿区の発展に伴い、東京都庁や防衛省などの官公庁も移転してきた。このように、商業地と住宅地、歴史ある地名と再開発地域、多国籍といった、まさに大都市の光景を縮図にした性格を新宿区はもっている。1970年(45年)辺りまでは、「若者の街」、「若者文化の流行の発信地」といえば、新宿だった。しかし、1973年(48年)に渋谷でPARCOの開店があり、日本における若者文化の歴史が大きく変化。その流れは「新宿から渋谷、または渋谷区全体へ」と移り変わっていく。 地理新宿区は東京都区部の中央やや西側に位置する。 地勢新宿区の地勢・境界・隣接自治体新宿区の地勢を巨視的に観察すると、武蔵野台地(下末吉面・武蔵野面)と江戸低地との境界部分に位置していることがわかる。下末吉面(淀橋台)と武蔵野面(本郷台の一部と豊島台)とが折り重なるようにして高台(山手)を作っており、この折り重なりにより生まれた起伏が区内標高最高地点の箱根山(44.6メートル、戸山一丁目)として今日みとめられる。標高30メートル程度の淀橋台(新宿・西新宿地区など)と20メートル程度の豊島台(落合・大久保地区など)はおおむね連続した平坦な高台を形成しており、鉄道(現在のJR線)が敷設された近代以降急速に人口増加が進んだ。これら高台に、標高10メートル未満の江戸低地が入り組んでいる。神田川・妙正寺川はこの低地部分に沿って流れており、かつては諏訪・戸塚地区をはじめとする広範な湿地帯を形成していた。近世には人為的に作られた水流(江戸城外濠・玉川上水)が付近に加わり、今日の新宿区の西と北東 – 南東の境界はこれら水流を基準に定められている。このほか、区内の外苑東通りや靖国通りも低地に沿って建設されている。こうした高台と低地とを往来するための坂道が区内にも多く見られ、古来より風情と文化を育んだ。区内の年間平均気温は約15℃であり、東京都の気象観測所のある大手町付近と比べ約1℃ほど低い。冬は大手町よりも寒くなり、反対に夏は暑いこともある。 歴史新宿区は、東京市四谷区・牛込区、豊多摩郡内藤新宿町・淀橋町・大久保町・戸塚町・落合町(5町はいずれも東京市に編入され、内藤新宿町は四谷区域、他の4町は淀橋区となる)を前身とする自治体で、1947年(22年)3月15日に発足した。 沿革1878年(11年)11月2日:郡区町村編制法が施行され、東京府は次の15区6郡に区画分けされる。麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝(東京都港区)・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区・荏原郡・南豊島郡・北豊島郡・東多摩郡・南足立郡・南葛飾郡1889年(22年)5月1日:東京府内に市制・町村制が施行される。東京市発足。以降、四谷区・牛込区など15区はこの東京市に属する。南豊島郡内に町村(内藤新宿町・淀橋町・大久保村・戸塚村・落合村・他)が発足。南豊島郡千駄ヶ谷村の一部を四谷区に編入。南豊島郡牛込早稲田村を牛込区に編入。南豊島郡下落合村の一部を北豊島郡長崎村に編入。1891年(24年)3月18日:南豊島郡内藤新宿町の一部(大字内藤新宿一丁目・大字内藤新宿北町の各一部)が東京市に編入され、以降四谷区域の一部となる。1896年(29年)4月1日:南豊島郡と東多摩郡が合併し豊多摩郡となる。1898年(31年)12月1日:淀橋浄水工場(淀橋浄水場)通水。神田・日本橋地区に給水開始。1912年(元年)12月1日:豊多摩郡大久保村が町制施行。大久保町発足。1914年(3年)1月1日:豊多摩郡戸塚村が町制施行。戸塚町発足。1920年(9年)4月1日:豊多摩郡内藤新宿町の全域が東京市に編入され、以降四谷区域の一部となる。1924年(13年)2月1日:豊多摩郡落合村が町制施行。落合町発足。1932年(7年)10月1日:豊多摩郡淀橋町・大久保町・戸塚町・落合町が東京市に編入。4町の町域をもって東京市淀橋区発足。(この日、東京市には周辺82町村が編入され、淀橋区など20区が新たに発足。東京市域が大幅に拡大したため、以降「大東京市」などと表現されることもある。)1943年(18年)7月1日:東京都制施行により、東京府と東京市は廃止され東京都が発足。以降、四谷区・牛込区・淀橋区は東京都の行政区となる。1946年(21年):東京都区域整理委員会(東京都の諮問機関)設置。四谷区・牛込区・淀橋区をはじめとする東京都35区の数を減らすことを目的とした区域再編問題が議論される。最終的には、以下のうち22区移行案を答申。12区移行案 – 四谷区・牛込区・小石川区(現在の文京区の西側)・淀橋区・豊島区の5区をひとつにする案22区移行案(25区移行案の修正) – 四谷区・牛込区・淀橋区の3区をひとつにする案(現行の23区とほぼ同じ。練馬区はのちに板橋区から分離するため、この段階での区数は22。)25区移行案 – 四谷区・牛込区・淀橋区の3区をひとつにする案(のちの新宿区域に関しては22区移行案と同じ。違いは、赤坂区と渋谷区の合併、練馬区や玉川区の新設、足立区や江戸川区の区域変更などが盛り込まれていた。)1947年(22年)3月15日:東京都制第141条により四谷区・牛込区・淀橋区を廃止(合併)し、3区の区域をもって東京都新宿区発足。(東京都の行政区として発足。)区長は東京都長官が任命(3月15日 – 4月12日元成純夫、4月13日 – 5月2日岡田昇三。元成はその後1955年(30年)まで新宿区初代助役として岡田を支える)。新宿区役所は旧牛込区役所(箪笥町、現牛込箪笥区民センター建設地)に置かれる。5月3日:地方自治法施行により、新宿区は特別区となる。公選により岡田昇三が区長に就任。(岡田の区長在任期間は5期20年。1952年(27年)の地方自治法改正により、3期目以降は公選ではなく、区議会が都知事の同意を得て選任。なお、岡田は1945年(20年)淀橋区長に任命された経験がある。)1949年(24年)3月15日:区歌「大新宿区の歌」制定。1950年(25年)1月1日:区役所を歌舞伎町に移転。(1度目の移転。)1965年(40年)3月31日:淀橋浄水場(角筈三丁目、現座の西新宿二丁目)廃止。浄水場機能は東村山浄水場(東村山市)に移転。以後、跡地は新宿副都心地区として整備計画が本格化する。1966年(41年)11月21日:区役所新庁舎(現本庁舎、歌舞伎町一丁目)完成し、旧庁舎から移転。業務開始。(2度目の移転、現在に至る。)1967年(42年)3月15日:区の紋章を制定。10月6日:任期満了により岡田昇三が区長を引退。後任の区長には助役の伊藤俊行が内定しており、都知事の同意も得ていた。ところが、伊藤が二重に住民登録をしていることが区議会で問題視されたため区長就任には至らなかった。その後も新たな候補者の選任が難航し、ほぼ1年間にわたり区長が不在となる。12月17日:助役(伊藤俊行)と収入役が任期満了を迎える。区長が不在のため新たな助役・収入役の任命を行うことができず、翌年の山本区長就任まで空席となる。この助役空席期間における区長職務は、新宿区役所総務部長の内田義雄が代理執行。1968年(43年)10月4日:新宿区教育委員長の山本克忠が区長に就任。(山本の区長在任期間は6期23年。1975年(50年)の地方自治法改正により、3期目以降は公選による。1991年(3年)の区長選挙に立候補するも僅差で落選、引退。)1972年(47年)9月19日:区の花を「つつじ」に、区の木を「けやき」に制定。1975年(50年)4月1日:新宿中央公園が東京都から新宿区に移管される。新宿区役所・本庁舎前1977年(52年):区役所分庁舎が歌舞伎町(現歌舞伎町一丁目・現第一分庁舎建設地)に完成、業務開始。1986年(61年):平和都市宣言。1989年(元年)9月18日:区役所第二分庁舎(歌舞伎町一丁目・現本庁舎から30メートル北に位置する建物を賃借)完成、業務開始。(すでに第一分庁舎の建設計画が決まっていたため、第二分庁舎と名付けられた。)これに伴い、分庁舎は改築工事のため閉鎖。1991年(3年)4月1日:東京都庁第一本庁舎・第二本庁舎・都議会議事堂(西新宿二丁目)が完成し、旧都庁舎(千代田区丸の内三丁目・現東京国際フォーラム建設地)から移転完了、業務開始。4月27日:東京都議会議員の経歴をもつ小野田隆が区長に就任。(小野田の区長在任期間は3期11年。2002年(14年)に自身の住民税滞納問題が発覚し任期途中に辞職。)旧分庁舎跡地に区役所第一分庁舎(歌舞伎町一丁目・現第一分庁舎)完成、業務開始。1994年(6年):環境都市宣言。1995年(7年)10月:財政非常事態を宣言。1997年(9年)4月28日:区役所四谷庁舎(内藤町・四谷区民センター内)完成、業務開始。これに伴い、第二分庁舎は廃止。2000年(12年):防衛庁本庁舎が港区赤坂九丁目(いわゆる六本木庁舎跡、現在東京ミッドタウン)から新宿区市谷本村町(陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地)に移転完了。2002年(14年)10月9日:小野田区長が辞職。(後任区長の就任までの期間、新宿区助役の高橋和雄が区長職務を代理。)11月24日:東京都幹部職員の経歴をもつ中山弘子が区長に就任。(現職、3期目。任期満了日2014年(26年)11月11日。女性区長の誕生は東京23区初。)2003年(15年)4月7日:区の「未来特使」に「鉄腕アトム」を任命。4月25日:2001 – 2002年度の実質単年度収支が黒字となったため財政非常事態宣言を「とりやめる」と発表。2004年(16年)2月9日:区役所第二分庁舎(新宿五丁目・現第二分庁舎)完成、業務開始。これに伴い四谷庁舎は廃止。2005年(17年)8月:ポイ捨て・路上喫煙禁止を定める「新宿区空き缶等の散乱及び路上喫煙による被害の防止に関する条例」を施行。 区名由来新宿とは、もともとは豊多摩郡内藤新宿町のことである。1920年(9年)、東京市四谷区に合併編入された際に新宿一 – 三丁目(現在の新宿一 – 三丁目全体の区画とほぼ同じ)となり、新宿駅の発展とともに世界有数の繁華街・商業地区へと変貌を遂げた。その名前の由来は、1698年に甲州街道の新たな宿場町として、信州高遠藩内藤若狭守の下屋敷に「内藤新宿(四谷内藤新宿とも)」が開かれたことによる。四谷区・牛込区・淀橋区が合併する際、「内藤新宿」は古い文献にも出てくるため歴史を感じさせる新宿御苑(四谷区)や新宿駅(淀橋区)などの言葉が全国的に有名である区内のほかの地名より「普遍的である」との理由で新区名に採用された。この新区名決定は困難をきわめた。そもそもこの合併自体が区側の発議によるものではなかったため反対の声が根強く(淀橋区は中野区や渋谷区と、牛込区・四谷区は文京区や千代田区との合併を模索するような動きさえあった)、これらの声に最大限配慮し対等な合併であることを強調するためそれぞれの区名を新区名に採用しないことが合併の条件として付け加えられた(『四谷怪談』など四谷という地名は比較的知名度があるとして当初は「四谷区」が新区名に採用される見込みだったが、これにより不採用となった)。歴史的経緯がまったく異なる地区同士の合併であったため地域の総称やシンボルが存在せず、また3区の合併であるため大田区のような合成区名をつけることも難しかった(この時期に合併して誕生した区は、港区以外はどこも2区合併。また、港区の場合、前身の3区はすべて東京府発足当初から区部だったのに対し、新宿区の場合は四谷区や牛込区といった区部と内藤新宿町や淀橋区といった元郡部にまたがっているため事情を複雑にしていた。)。最終的に新区名は新宿区とすることが決まったが、牛込区はこの名前に当初難色を示した。新宿御苑も新宿駅周辺も牛込区には何ら関係がなく、新宿という「郊外の地区」の名前では牛込地区を連想することができなくなるとの理由からである(新宿区発足時には他にも新しく9の区名が東京都内に誕生したが、区内の1地区の名称を新区名に採用したのは新宿区だけだった。多くはシンボルなどに基づく瑞祥区名を採用している。)。これが後に、牛込地区を中心に旧町名を残す運動が盛り上がる要因のひとつとなった。新区名の候補として、他に「戸山区」 – 戸山は牛込区内の地名。戸山公園がある。地理的に3区のほぼ中央に位置することから候補になった。当時東京新聞が実施した調査(新区名の人気投票)では、得票数一位だった候補名。全国的な知名度から新宿区のほうが「普遍的である」と判断され、採用ならず。「武蔵野区」 – 武蔵野は武蔵野国・武蔵野台地に由来する広域地名。周辺他区の新区名候補でもあったため、選考から外されたものと思われる。「山手区」 – 山手は武蔵野台地に由来する広域地名。周辺他区の新区名候補でもあったため、選考から外されたものと思われる。「早稲田区」 – 早稲田は牛込区内の地名。牛込は期の文学者所縁の地が多く、早稲田もそのひとつ。早稲田大学がある。新宿区のほうが「普遍的である」と判断され、採用ならず。「市谷区」 – 市谷は牛込区内の地名。JRの駅名(市ケ谷駅)にもなっている。この地区の広大な敷地が陸軍士官学校(現在、陸上自衛隊の駐屯地・防衛庁本庁舎所在地)となっているため、そのイメージに固定されてしまうと懸念され選考からはずされた。「富士見区」 – 瑞祥地名。「花園区」 – 花園は四谷区内の地名。花園神社や花園小学校などにその名前が残っている。京都市や東大阪市などに全国的に有名な花園という地名が存在するため選考から外されたものと思われる。「柏木区」 – 柏木は淀橋区内の地名。などが挙がっていた。 過去の出来事浄瑠璃坂の仇討1672年(寛文12年)2月3日、現新宿区市谷砂土原町の浄瑠璃坂にあった戸田七之助の屋敷に、奥平源八の一党が父の仇討のために討ち入る。仇の奥平隼人の探索に失敗して引き上げる途中、追ってきた隼人を近くの牛込御門前にて殺害。約20人死亡。高田馬場の決闘1694年3月6日(元禄7年2月11日)、高田馬場(現・新宿区西早稲田)にて伊予国西条藩松平頼純の家臣が決闘。約5人死亡。後に元禄赤穂事件に参加した堀部武庸が助太刀して名を挙げた。寿産院事件1944年(19年)4月から1948年(23年)1月にかけて東京都新宿区市谷柳町の寿産院院長とその夫が85人から169人(正確な数は不明)の嬰児を凍死、餓死、窒息死などさまざまな死因で殺害した。同院では嬰児に対する虐待が常態となっており、新聞広告などによって200人以上の乳幼児を集め、養育費を受けとりながら食事をろくに与えずに100人以上を死亡させた。米軍燃料輸送列車事故1967年(42年)8月8日新宿駅構内で、渡り線を通過中の中央線立川行き貨物列車(米軍基地への燃料輸送列車)の側面に、中央線上りの浜川崎行き貨物列車が停止信号を盲進し衝突。脱線・転覆したタンク車から漏れた航空燃料に引火し、機関車とタンク車3両が炎上した。死傷者は出なかったものの、激しい火災の消火と復旧作業に手間取ったことから復旧が遅れ、中央線は丸1日ストップした。新宿騒乱事件1968年(43年)10月21日の国際反戦デーの深夜、新宿駅を中心に集結した大規模な全学連の学生運動に対し騒乱罪が適用され、翌朝に催涙弾で制圧された。新宿西口広場反戦フォークゲリラ事件1969年(44年)より開催されていた反戦フォーク集会(最大で4万人が集結したともいわれている)が通行の邪魔になるとして、機動隊と衝突。騒乱となった。以降、“広場”ではなく道路交通法上の「道路」と指定換えがされ、集会は禁止となった。三島事件(楯の会事件)1970年(45年)8月19日、作家の三島由紀夫が新宿区市谷本村町の市ヶ谷駐屯地にあった陸上自衛隊東部方面総監部の総監室を「楯の会」メンバー4人と共に占拠し、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に「楯の会」メンバー1人と共に割腹自殺をした。新宿西口バス放火事件1980年(55年)8月19日、新宿駅西口バスターミナルの路線バスに男が放火、6人が死亡、14人が重軽傷を負う惨事となった。新宿歌舞伎町ラブホテル連続殺人事件1981年(56年)3月 – 6月に新宿区歌舞伎町のラブホテルで3人の女性が相次いで何者かに殺害された事件。結局事件はいずれも未解決のまま公訴時効が成立した(うち被害者1人の身元は現在も不明のまま)が、プライバシー重視を売りにしたラブホテルの防犯対策が真剣に考えられるようになった契機にもなった。新宿歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件1982年(57年)6月、家出中の女子中学生2人が新宿区歌舞伎町のディスコで若い男に誘われ、千葉市花見川区内で殺傷された事件。被害者の証言を基に作成された容疑者の似顔絵が公表されたが、結局事件は未解決のまま公訴時効が成立した。戸山人骨問題1989年(元年)7月、国立感染症研究所(戸山一丁目、当時品川区から新宿区に移転中)の移転予定地の工事現場から、人為的損傷痕のある不自然な人骨が35体発見された。この地はかつて陸軍軍医学校の敷地だったため、戦前の陸軍による人体標本説や人体実験説などの憶測も呼んだ。人骨は鑑定後新宿区により焼却埋葬される予定だったが、鑑定結果は陸軍の関与を示しているとして真相究明を求める運動が起こり、人骨の焼却差止め訴訟に発展した。歌舞伎町ビル火災2001年(13年)9月1日、歌舞伎町の風俗店などが入居するビルから出火、死者44人を出す大惨事となった。消防査察の強化をはじめ、歌舞伎町浄化政策を促すこととなった。新宿歴史博物館盗難事件2002年(14年)、新宿区立新宿歴史博物館(三栄町)の所蔵品の一部(林芙美子の書簡7点)が競売入札にかけられていることが発覚(新宿区の公式プレスリリースでは、競売入札にかけられていることを新宿区の職員が把握したのは6月20日であるとしている)。新宿区はこれを27万円で買い戻すとともに、盗難届を出して内部調査を開始した。8月23日、新宿区役所環境保全課の職員(犯行時には新宿歴史博物館学芸課に勤務)がこれら所蔵品の横領と転売の容疑で逮捕され、自宅と新宿区役所が家宅捜索されるに至った。この時期には「夏目漱石の『道草』草稿など20点の所在も不明である」「新宿歴史博物館は所蔵資料を定期的にチェックしておらず、前回の点検は7年前であった」との報道もなされ、博物館の管理体制の甘さを露呈した。現職区長の住民税滞納問題2002年(14年)10月、新宿区長の小野田隆が住民税等の納税を滞納していることが発覚。当時新宿区は財政非常事態宣言を出し福祉行政の見直しを進めていただけに、区民から大きな批判を浴びた。数日後、滞納額は所得税と相続税11億7600万円、都民税と区民税3700万円の総額12億1300万円と報道され、小野田は区長を引責辞任。また、新宿区の職員が直接小野田に督促していなかったことや、小野田の滞納が今回はじめてではなかった事実も明らかになり、住民税滞納者への臨戸徴収(自宅訪問徴収)を一時見合わせるなど、区政も混乱した。 地域 区内の地域東京府の区部郡部時代の行政区域新宿区内を地域分け(区域分け)する方法はいくつか存在するが、合併により誕生した経緯から過去の行政区域を基準としたものが比較的多くみられる。市街地化によりこの基準が細分化されたり、交通網の発達とともに駅周辺が1つの地域として新たに認知されるようになるなど、この基準は月日の経過とともに変動が見られるため、普遍的な地域分けが確立しているわけではない。代表的なものとして、新宿区の前身である東京市行政区時代の区域を基準にした3地区分類(各地区を四谷地区・牛込地区・淀橋地区などと表現する)がある。ただし、旧淀橋区域は範囲が広いことや、淀橋区が存在したのはわずか15年間であり1地域としての実態に乏しいこと、新宿(旧内藤新宿町域)を四谷に分類するのは今日の実態とかけ離れていることなどから、四谷・淀橋地区を前身1区5町域に細分化した7地区分類を基準に地域分けすることが多い。この基準に住居表示による町名町域変更の影響が加わり、各地区の名称や範囲は変化。戸塚地区は高田馬場・早稲田、旧淀橋町域(角筈・淀橋・柏木)は西新宿・北新宿という名称が定着した。また、相対的に範囲の広い旧牛込区域(牛込地区)において、南部(市谷を冠する町名が集まる地区)は市谷地区、北西部(早稲田大学周辺)は早稲田と呼ばれているが(いずれも牛込区の前身の市谷村域・早稲田村域に由来)、このほか地下鉄東西線沿線地区を早稲田・神楽坂と表現する機会も多くなっている。新宿区内の地域名として使われる機会があるもののうち、主なものを以下に挙げる。市谷牛込大久保落合神楽坂柏木北新宿新宿諏訪高田馬場角筈戸塚戸山中井西新宿四谷淀橋早稲田 行政区域区は、1950年(25年)以来10か所の特別出張所と区役所本庁地区の計11か所に対応する行政区域を設けている。名称は以下の通り。四谷地区箪笥町地区榎町地区若松地区大久保地区戸塚地区落合第一地区落合第二地区柏木地区西新宿地区区役所地区 住居表示と町名保存新宿区内における住居表示実施前後の町名町域対照地図周辺自治体と同様、新宿区も1965年(40年)に住居表示の実施に着手。区内の西側から徐々に町域統合と住居表示を進めた。この結果、1970年代には戦後の若者文化の発信地とも言われていた新宿駅周辺の町名(柏木・角筈・淀橋など)が軒並み「新宿」「西新宿」「北新宿」で統一され、古い町名を頼りに昔の記憶を辿ることもままならなくなった。これを昔の情緒・伝統・文化の破壊と受け止めた文化人や旧牛込区・四谷区域の住民が中心となり、古い町名を残す運動が盛り上がりをみせた[3]。新宿区は当初、町域を統合した上で東新宿・東早稲田といった方角町名を採用して区内の住居表示完全実施を目指していたが、1980年代には町名保存の声に配慮し、未実施地区に関しては古い町名町域を出来る限り維持した上で住居表示を実施していく方針に転換することを区長が表明した。これにより町名は存続することで決着をみたが、住居表示自体はその後もあまり進んでおらず、旧牛込区・四谷区域は、千代田区(神田を冠する町・番町・麹町)と同様、住居表示未実施地区を多く残して現在に至っている。住居表示実施率は2009年(21年)現在約75パーセントであり、新宿区政の今後の課題のひとつとなっている。なお、2002年(14年)に市谷台町を、2003年(15年)には霞ヶ丘町の住居表示を実施したことにより、実施率が千代田区を上回った。 区内の町名新宿区の特徴のひとつに、町名の数が多いことが挙げられる。新宿区に隣接する付近の自治体が(千代田区を除いて)おおむね20 – 30程度にまで町名を減らしたのに対し、新宿区には現在94(霞岳町と霞ヶ丘町を別個の町名とするならば95)の町名が存在する(この数字は東京都の特別区のうち最多)。江戸時代の武家屋敷や門前町屋に由来する町名が旧牛込区・四谷区域を中心に多くみられる(2009年(21年)7月末時点における住居表示未実施の町名は太字で示した。なお、白銀町と市谷台町には未実施の箇所がごくわずかながら存在する)。愛住町赤城下町赤城元町揚場町荒木町市谷加賀町一丁目 – 二丁目市谷甲良町市谷砂土原町一丁目 – 三丁目市谷左内町市谷台町市谷鷹匠町市谷田町一丁目 – 三丁目市谷長延寺町市谷仲之町市谷八幡町市谷船河原町市谷本村町市谷薬王寺町市谷柳町市谷山伏町岩戸町榎町大久保一丁目 – 三丁目改代町神楽河岸神楽坂一丁目 – 六丁目霞岳町(霞ヶ丘町成立後の残余)霞ヶ丘町片町歌舞伎町/a>一丁目 – 二丁目上落合一丁目 – 三丁目河田町喜久井町北新宿一丁目 – 四丁目北町北山伏町細工町坂町左門町三栄町信濃町下落合一丁目 – 四丁目下宮比町白銀町新小川町新宿一丁目 – 七丁目(新宿二丁目も参照)水道町須賀町住吉町大京町高田馬場一丁目 – 四丁目箪笥町築地町津久戸町筑土八幡町天神町戸塚町一丁目富久町戸山一丁目 – 三丁目内藤町中井一丁目 – 二丁目中落合一丁目 – 四丁目中里町中町納戸町西落合一丁目 – 四丁目西五軒町西新宿一丁目 – 八丁目二十騎町西早稲田一丁目 – 三丁目馬場下町払方町原町一丁目 – 三丁目東榎町東五軒町百人町一丁目 – 四丁目袋町舟町弁天町本塩町南榎町南町南元町南山伏町山吹町矢来町横寺町余丁町四谷一丁目 – 四丁目若葉一丁目 – 三丁目若松町若宮町早稲田鶴巻町早稲田町早稲田南町 消滅した町名新宿区の発足以降に消滅した町名は21ある。大部分が住居表示実施に伴う町名変更による。市谷河田町現在の河田町のほぼ全域(ただし、河田町コンフォガーデンの南側の2棟(C棟・D棟)とその周辺、原町三丁目に隣接する東京女子医科大学看護学部の校舎は除く)。当時、若松町(北)・市谷仲之町(東)・市谷台町(南・のち一部が若松町)・余丁町(西)に隣接。1986年(61年)2月24日、住居表示実施に伴う町名変更により消滅。かつて市谷河田町は、フジテレビ(1997年(9年)、港区台場二丁目に移転)や新宿簡易裁判所(1993年(5年)廃止、東京簡易裁判所に機能統合)の所在地として知られていた。市谷冨久町現在の富久町のほぼ全域(ただし、東京都立小石川工業高等学校敷地の南東に接するごくわずかな一画と、富久町保育園の北東に接するごくわずかな一画は除く)と、余丁町のごく一部(余丁町児童遊園の西に隣接する一画)。当時、東大久保一丁目 – 番衆町(西)・花園町 – 四谷四丁目 – 愛住町(南)・市谷台町(東・のちに一部が住吉町)・余丁町(北)に隣接。1983年(58年)8月1日の住居表示実施により富久町が誕生し、これにより市谷冨久町のほぼ全域が消滅。残りのごくわずかな区画のうち、善慶寺や東洋美術学校の南側付近の一画は住吉町に、余丁町児童遊園の西に隣接する一画は余丁町として、それぞれ1986年(61年)11月4日に住居表示が実施され市谷冨久町は消滅。ただし、小石川工業高等学校敷地の東に接する道路部分(現市谷台町)はその後も2002年(14年)4月1日まで市谷冨久町として存続(なお、市谷冨久町の「冨」は「ワかんむり」、富久町の「富」は「ウかんむり」)。柏木現在の北新宿一 – 四丁目の全域と、西新宿六 – 八丁目のほぼ全域(ただし、西新宿六丁目のうち、公園通りより西側すべて・北通り沿線・新宿警察署付近一帯を除く。また、西新宿七丁目のうち、小滝橋通りより東側をすべて除き、大江戸線新宿西口駅のD5出口付近は含む)。このエリアのうち、西新宿六 – 八丁目のほぼ全域が柏木一丁目、北新宿二丁目のほぼ全域が柏木二丁目、北新宿一丁目のほぼ全域が柏木三丁目、北新宿三丁目のほぼ全域が柏木四丁目、北新宿四丁目のほぼ全域が柏木五丁目だった。当時、淀橋(南西)・角筈二丁目(南)・角筈一丁目(南東)・百人町一 – 三丁目(東)・戸塚町四丁目(東 – 北東)・中野区(西)に隣接。住居表示実施により、1970年(45年)4月に西新宿六丁目が、1971年(46年)1月に西新宿七 – 八丁目と北新宿一 – 四丁目が誕生し、柏木は消滅。今日、新宿区役所柏木特別出張所などにその名を留めている。このほか、児童数減少により新宿区立淀橋第一小学校と第七小学校が統廃合されて1997年(9年)に誕生した新小学校の名前は柏木小学校と命名された。なお、一部の資料には、柏木五丁目の一部が現在の高田馬場三丁目の一部であるとの記載がある。これは柏木五丁目の最北端である小滝橋交差点の道路部分(現高田馬場三丁目)がかつて柏木五丁目に含まれていたことによる。したがって、柏木という町名が消滅したのは、厳密には高田馬場三丁目が誕生した1975年(50年)6月である。霞岳町現在の霞ヶ丘町のほぼ全域(神宮外苑休憩所の一画は除く)。霞岳町も霞ヶ丘町も読み方は「かすみがおかまち」。2003年(15年)9月の住居表示実施に伴う町名変更により、霞岳町のほぼ全域が霞ヶ丘町となった。ただし、JR信濃町駅前の交番一帯のごくわずかな部分だけは住居表示実施の対象外となったため(暫定的に)霞岳町のまま残っている。三光町現在の歌舞伎町一丁目と新宿五丁目のそれぞれ一部。おおむね、歌舞伎町一丁目の町域のうち新宿遊歩道公園より東側と、新宿五丁目の町域のうちモスバーガー新宿五丁目店(靖国通り沿い)よりも西側エリアが当時の三光町の町域。(伊勢丹別館やOIMEN新宿を含む。ただし、新宿六丁目交差点付近の一画は除く。)当時、番衆町(東)・角筈一丁目の飛地と東大久保一丁目(北)・歌舞伎町一丁目(西)・新宿二丁目と三丁目(南)に接していた。1978年(53年)7月、住居表示実施に伴い消滅。三光町は古くは四谷三光町という町名であり、付近の交差点の名称や路面電車のターミナルの停留所名ともなっていたことから、小説の舞台として登場するなど長らく親しまれていた。十二社(じゅうにそう)現在の西新宿二丁目・四丁目の一部。おおむね、方南通り・公園通り・南通り・渋谷区本町三丁目に囲まれたエリア(ただし、新宿中央公園の東半分、方南通り沿線、新宿区立西新宿小学校 – 角筈区民センター周辺の一画を、それぞれ除く)。当時、角筈三丁目(東 – 南)・淀橋(北)・渋谷区(西)に隣接。1970年(45年)4月、住居表示実施に伴う町名変更により消滅。今日、十二社通り(公園通りの西、山手通りの東に並行して敷設)や新宿十二社温泉などにその名を留めている。諏訪町現在の高田馬場一丁目のほぼ全域(ただし、新宿区立戸塚第二小学校や新宿区役所戸塚特別出張所など早稲田通り沿線部分すべてと、西武線・JR線の鉄道敷設部分を除く)と、西早稲田二丁目の西側(三井住友建設早稲田寮敷地西端よりも西、印度大使官邸敷地南端よりも南)、戸山三丁目の一部(2005年(17年)3月廃校の新宿区立戸塚第一中学校敷地と学習院女子大学敷地と諏訪通りの3者に囲まれたごくわずかな領域)がかつての諏訪町域。当時、西大久保四丁目(南)・戸山町(南)・戸塚町二丁目(東 – 北)・戸塚町三丁目(北 – 西)に隣接。今日、新宿区の公園の名称(諏訪公園・諏訪の森児童公園)・南に接する道路の一般名称(諏訪通り)・諏訪通りと通りの交差点の名称(諏訪町)などにその名を留めている。住居表示実施により、1975年(50年)6月に町域の大部分が高田馬場一丁目と西早稲田二丁目に変更、残余のごく狭小な区域は1981年(56年)6月に戸山三丁目21番街区となり、諏訪町は消滅。高田町現在の西早稲田二丁目(早稲田通り・諏訪通り・通りで囲まれたエリア)の町域の最東端、穴八幡神社とその周辺一画(サイゼリヤや馬場下町交番などを含み、小林建設・日本キリスト教教会・エネオスは含まない)がかつての高田町域。当時、戸塚町一丁目(東 – 北)・戸山町(西 – 南)・馬場下町(南西)に隣接。1975年(50年)6月、住居表示実施に伴い消滅。角筈(つのはず)新宿区発足当初の角筈の町域は、現在の歌舞伎町一丁目のほぼ全域、新宿三丁目の東半分(新宿駅東口周辺)、西新宿一丁目と三丁目の全域、西新宿二丁目のほぼ全域、西新宿四丁目の一部(歌舞伎町一丁目のうち、新宿遊歩道公園より西はすべて除く。ただし、遊歩道公園の北側入り口付近に接するごくわずかなエリアを含む。新宿三丁目のうち、紀伊國屋書店新宿本店・新宿三越ALCOTT店・大塚家具新宿ショールーム等の東側境界より東はすべて除く。西新宿二丁目のうち、新宿中央公園の西側半分は除く。西新宿四丁目のうち、新宿区立西新宿小学校敷地の北側に接する道路より北はすべて除く)。このエリアのうち、おおむね歌舞伎町一丁目と新宿三丁目が角筈一丁目、西新宿一丁目のうち新宿野村ビル・損保ジャパンビル・新宿センタービルを除いたエリアが角筈二丁目、西新宿一丁目の残りと西新宿二 – 四丁目が角筈三丁目である。新宿区発足当初の角筈は、渋谷区(南 – 西)・十二社(西)・淀橋(北西)・柏木一丁目(北)・西大久保一 – 二丁目(北西)・三光町(東)・新宿三丁目(東)・旭町(南)に隣接。1948年(23年)4月1日、戦災復興事業の一環として角筈一丁目のうち靖国通りより北側が三光町の一部などとともに区画整備され歌舞伎町(当時)として分離。ただし、現在の新宿遊歩道公園北側の一画は歌舞伎町とはならず角筈一丁目として存続したため、以降飛地となった。そののち段階的に住居表示が実施され、1970年(45年)4月に西新宿一 – 四丁目が誕生し、角筈三丁目が消滅。1973年(48年)1月に現在の新宿三丁目が誕生し角筈二丁目が消滅。1978年(53年)7月に歌舞伎町一丁目が誕生し、飛地の角筈一丁目も消滅した。かねてから新宿地区の重心は西へと移動しつつあったが、この角筈の消滅により、新宿駅の所在地は新宿三丁目に、副都心の高層ビル群の所在地は西新宿二丁目となり、新宿地区のこれらの要所の住所と実態とが一致することになった。戸山町1981年(56年)6月の住居表示実施により、戸山町ではなく戸山一 – 三丁目となった。かつての戸山町域は、現在の戸山一 – 三丁目の全域にほぼ一致する。ただし、2005年(17年)3月廃校の新宿区立戸塚第一中学校敷地と学習院女子大学敷地と諏訪通りの3者に囲まれたごくわずかな領域は旧諏訪町、戸山三丁目西側の通り沿線付近一帯(学習院旧正門・ユニクロ通り新宿ステパ店など)は旧西大久保四丁目。西大久保現在の歌舞伎町二丁目と大久保一 – 二丁目の全域・大久保三丁目のほぼ全域(JR線・西武線の敷設部分を除き、この鉄道沿線部分のうち海城学園敷地の一号館より西にあるすべても除く)・新宿七丁目の一部(おおむね、新宿第一保育園より西側の通り沿線エリア)・新宿六丁目のごく一部(通りの沿線一帯)・戸山三丁目のごく一部(通りの沿線一帯)がかつての西大久保の町域である。このエリアのうちおおむね、歌舞伎町二丁目と新宿六丁目が西大久保一丁目、大久保一丁目と新宿七丁目が西大久保二丁目、大久保二丁目が西大久保三丁目、大久保三丁目と戸山三丁目が西大久保四丁目だった。当時、諏訪町(北)・戸塚町一 – 四丁目(西)・角筈一丁目(南・のち一部が歌舞伎町)・東大久保一 – 二丁目(東)・戸山町(東)に隣接。1978年(53年)7月1日、住居表示実施に伴う町名変更により、西大久保一 – 三丁目が消滅。通り沿線に一部残った西大久保四丁目も1981年(56年)6月1日に戸山三丁目となり、西大久保は消滅した。今日、新宿区立西大久保公園などにその名を留めている。また、2000年(12年)12月に開業した大江戸線東新宿駅の建設当時の仮称駅名は、大久保駅の東側にあるにもかかわらず「西大久保駅」であった。花園町現在の新宿一丁目の町域のうち、新宿区立花園公園の南側に接する道路よりも北側すべてが花園町域。当時、四谷四丁目(東)・市谷冨久町(北)・番衆町(北)・新宿二丁目(西)・新宿一丁目(南)に隣接していた。1973年(48年)1月、住居表示実施に伴う町名変更により消滅。なお、厳密には靖国通り上の「四谷電話局前」信号機付近の道路部分の一部が花園町のまま存続した。1983年(58年)8月1日にこの道路部分は余丁町の一部となった。新宿区立の公園(花園公園・花園西公園・花園東公園)などにその名を留めている。1995年(7年)、児童数減少により新宿区立四谷第五小学校と第七小学校が統廃合されて誕生した新小学校の名前は花園小学校と命名された。花園の名は付近の花園神社(新宿五丁目)に由来。番衆町現在の新宿五丁目の町域のうち、モスバーガー新宿五丁目店(靖国通り沿い)よりも東側が当時の番衆町の町域。当時、三光町(西)・東大久保一丁目(北)・新宿二丁目と花園町(南)・市谷冨久町(東)に接していた。1978年(53年)7月、住居表示実施に伴い消滅。東大久保現在の新宿六丁目のほぼ全域(通りの沿線一帯を除く)・新宿五丁目のごく一部(新宿六丁目交差点の付近一帯のみ)・新宿七丁目の一部(おおむね、新宿第一保育園より東側すべて)・余丁町のごく一部(抜弁天交差点付近の厳嶋神社の一角のみ)がかつての東大久保の町域である。このエリアのうちおおむね、新宿七丁目と余丁町と新宿六丁目の一部(おおむね、文化センター通りと旧新宿区立大久保中学校・新宿区立新宿中学校移転予定地に囲まれたエリア)が東大久保二丁目、残りの部分が東大久保一丁目だった。当時、戸山町(北)・西大久保二 – 一丁目(西)・角筈一丁目(南西・のちに歌舞伎町発足時に隣接していた角筈一丁目地区の一部が東大久保一丁目に統合)・三光町(南西)・番衆町(南)・市谷冨久町 – 余丁町 – 若松町(東)に隣接。1978年(53年)7月1日、住居表示実施に伴う町名変更により東大久保一丁目全域と二丁目のほぼ全域が消滅。東大久保二丁目としてわずかに残っていた厳島神社一画は、1986年(61年)11月4日に余丁町の一部となる。今日、新宿区立東大久保公園などにその名を留めている。淀橋現在の西新宿二丁目・四 – 六丁目の一部。おおむね、青梅街道・公園通り・北通り – 方南通り・神田川・渋谷区本町三丁目に囲まれたエリア(ただし、新宿中央公園の北側 – 西新宿四郵便局 – 大江戸線西新宿五丁目駅のA2出口一帯を含み、新宿グリーンタワー周辺の一画を除く)。当時、柏木二丁目(北)・柏木一丁目(東)・角筈三丁目(南東)・十二社(南)・渋谷区(南西)・中野区(西)に隣接。1970年(45年)4月、住居表示実施に伴う町名変更により消滅。今日、神田川に架かる付近の橋(青梅街道と神田川の交差部分)の名称としてのほか、ヨドバシカメラ・新宿区立淀橋第四小学校などにその名を留めている。上記のほか、区画整備や町域統合を目的としない町名変更が戦災復興時に行われた。いずれも商業的な理由による。市谷谷町谷の文字が重なるため、かつては「市谷町」と誤記されることが多く、周辺には市谷を冠する町名が多いことから地元の取引にも支障を来たしていた。このため1952年(27年)12月に町名が変更され、以後住吉町の一部となった(住吉町は、新宿区発足以前に市谷谷町等の周辺町域が名称変更されて誕生した。したがって、市谷谷町として存続していた町域が1952年(27年)にすべて住吉町に統合された)。一説には、谷が重なる住みにくい町であるとの印象を与えるため、住みやすい町(すみよし町)であることを示す意図があったという。実際付近には谷間や起伏が見られ、これに由来する市谷台町という町名は現在も残っている。旭町1952年(27年)12月の町名変更により消滅。以後、全域がそのまま新宿四丁目となる。1973年(48年)1月にその町域全体がそのまま新宿四丁目として住居表示実施。神楽町現在の神楽坂一丁目 – 三丁目のほぼ全域。1951年(26年)に神楽坂一 – 三丁目に改称。上宮比町(かみみやびちょう)現在の神楽坂四丁目のほぼ全域。1951年(26年)改称。上宮比町の名前の由来は、宮比神社を祭る祠の台地の上にあることから。台地の下にあることに因む下宮比町(しもみやびちょう)という町名は付近に残っている。肴町現在の神楽坂五丁目のほぼ全域。1951年(26年)改称。通寺町現在の神楽坂六丁目のほぼ全域。1951年(26年)改称。 隣接する自治体新宿区は以下の6特別区に隣接している。隣接距離が最も長いのは中野区。なお、練馬区とは隣接していないが、新宿区西落合四丁目と練馬区旭丘一丁目とは、100メートル程度しか離れていない。新宿区に隣接する特別区とその町域を以下に挙げる。(最北端から時計回り順に記載。)豊島区南長崎六・五・四・三・二・一丁目目白五・四・三・一丁目高田三・二・一丁目文京区目白台一丁目関口一丁目水道二・一丁目後楽二丁目千代田区飯田橋三・四丁目富士見二丁目九段北四丁目五番町六番町麹町六丁目紀尾井町港区元赤坂二丁目北青山一・二丁目渋谷区神宮前二丁目千駄ヶ谷二・一・六・五丁目代々木二・三・四丁目初台一丁目本町一・二・三丁目中野区弥生町一丁目本町一丁目中央一丁目東中野一・五・四・三丁目上高田一・四・五丁目松が丘一丁目江古田一丁目江原町一・三丁目 区域の変更新宿区の発足以降、何度か境界変更がなされている。國學院高等学校敷地渋谷区と新宿区の境界に関して、かつては神宮球場の正門ゲート(球場のバックネット側・本塁側7・8番入口付近)前の信号機から、都営霞ヶ丘アパートの6号棟(勢揃坂の北、新宿区霞ヶ丘町)までほぼ直線に境界線が引かれていた。このため國學院高等学校(渋谷区神宮前二丁目)の敷地は渋谷区域と新宿区域で二分されており、國學院高等学校第一記念館と文科館は新宿区域内に位置していた。現在この境界は変更され、國學院高等学校敷地の北側境界が渋谷区と新宿区の境界になっている。落合公園中野区と新宿区の境界は河川(妙正寺川・神田上水)の河道を基準としている。かつてはこれらの河川がたびたび氾濫し周辺地区に水害被害をもたらしていたため、断続的に改修工事が施され、河道ラインの凹凸を廃する変更がなされてきた。旧神田上水(中野区と新宿区の境界、西新宿 – 小滝橋までの神田川)の場合、改修のたびに中野区との境界を河道に合わせて変更していたが、妙正寺川・神田川本流の場合には、河道が変更されても境界はそのまま残った(今日豊島区との境界に神田川で区切られた飛び地が散見されるのはこれに由来する)。妙正寺川に隣接する落合公園(新宿区中井一丁目)は新宿区発足後の河川改修によって作られた公園のひとつで、公園付近の中野区との境界はこの時の河道ラインの変更に合わせて境界変更された(付近の中野区上高田四丁目・五丁目に妙正寺川で区切られた飛び地が存在するのは、新宿区発足以前の河川改修の名残である)。飯田濠再開発1970年代、飯田濠(JR飯田橋駅に隣接する外濠部分、新宿区神楽河岸 – 千代田区飯田橋四丁目)は水質汚濁による悪臭発生地帯として問題視されており、早期解決が望まれていた。1980年代に大部分は埋め立てられ、一部は暗渠化。その後都市再開発事業の一環としてこの地に飯田橋セントラルプラザなどが建設された。かつては飯田濠に沿ってその中央が千代田区と新宿区の境界になっていたが、この埋め立てにより1983年(58年)8月6日付けで区境を変更、飯田濠の南全体は新宿区域、北全体は千代田区域となった(今日JR飯田橋駅西口の西側境界に隣接する建物の住所は千代田区飯田橋四丁目ではなく新宿区神楽河岸)。 区政 区長中山弘子2010年(22年)11月14日執行の選挙で3選を果たした。任期:2014年(26年)11月22日まで延長(3期目は2010年(22年)11月23日から) 区議会定数: 38人任期:2011年(23年)4月30日会派議席数自由民主党新宿区議会議員団9新宿区議会公明党9日本共産党新宿区議会議員団8民主党新宿区議会議員団6新宿区議会無所属クラブ3社会新宿区議会議員団2新宿区議会花マルクラブ1※ 社会新宿区議会議員団は、社会民主党と新社会党の統一会派。 シンボル区の木 – けやき区の花 – つつじ 友好都市・提携都市調印年月日の順。 伊那市(長野県)1986年(61年)7月12日、高遠町と友好提携2006年(18年)7月2日、伊那市と友好提携1986年、旧高遠町と友好提携。「内藤新宿」の名の起こりとなった内藤家が高遠藩主であった縁による。高遠町が合併により2006年(18年)4月より伊那市に含まれることになったため、同年7月に伊那市と再提携[4][5]。 レフカダ町(ギリシア)1989年10月12日、友好都市協定調印レフカダで生まれ新宿で亡くなった小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の縁による。1984年、レフカダに八雲の記念碑が建立され、翌85年に新宿区長がレフカダを訪問したことを契機として交流が活発化し、協定調印に至る[4][6]。 ミッテ区(ドイツ連邦共和国ベルリン市)1994年7月6日、ティアガルテン区と友好協定締結1990年7月、ティアガルテン区から提携を提案。合唱団の相互訪問や青年交流が深められ、友好協定が締結された。統一ベルリンの中央に位置するティアガルテン区は、国会議事堂など首都の重要な施設を擁する。行政区画再編により2001年1月1日にミッテ区となる[4][6]。 東城区(中華人民共和国北京市)1995年10月15日、友好交流・協力関係締結に関する合意書に調印1996年8月11日、「友好区関係確立に関する補充合意書」締結1988年、東城区から提携を提案。区民間の交流が深められ、協定に至った。東城区は故宮・天安門・北京駅や繁華街王府井などを含み、首都北京の中心地区[4][6]。 主要区政犯罪対策新宿区は、2010年(22年)に犯罪発生件数10537件を記録し、東京都内で最も犯罪発生件数が多い自治体となってしまった[7]。そのため、繁華街だけでなく住宅地においても、条例の拡充や防犯パトロールなどの取り組みが行われている[8]。 交通 鉄道新宿区内の鉄道路線図(2006年3月現在)(東京地下鉄副都心線も掲載) 鉄道路線新宿区内には以下の鉄道路線が敷設されており、いずれも区内に駅がある。最も古い路線は日本鉄道品川線(現在のJR山手線の一部、1885年(18年)3月1日開業)、最も新しい路線は東京地下鉄副都心線(2008年(20年)6月14日開業)である。 東日本旅客鉄道山手線中央線総武線埼京線湘南新宿ライン 東京地下鉄丸ノ内線有楽町線東西線南北線副都心線 東京都交通局都営新宿線都営大江戸線都電荒川線 小田急電鉄小田急小田原線 京王電鉄京王線京王新線 西武鉄道西武新宿線 鉄道駅新宿区を所在地とする駅と、新宿区の境界から100メートル以内の地点にある他区の駅(駅名をカッコで囲んだ)を以下に挙げた。新宿駅の乗降客数は約345万人(2007年(19年))と世界最大であり、ギネス・ワールド・レコーズに認定されている。地下道で直結した西武新宿駅まで含めれば約364万人を超え、新宿三丁目駅など新宿エリアの駅まで含めれば、約403万人以上に達する。曙橋駅飯田橋駅市ケ谷駅牛込神楽坂駅牛込柳町駅(江戸川橋駅)大久保駅落合駅落合南長崎駅面影橋駅神楽坂駅国立競技場駅信濃町駅下落合駅新大久保駅新宿駅新宿御苑前駅新宿三丁目駅新宿西口駅新線新宿駅西武新宿駅(千駄ケ谷駅)高田馬場駅都庁前駅中井駅西新宿駅西早稲田駅西新宿五丁目駅(初台駅)東新宿駅(目白駅)四ツ谷駅四谷三丁目駅若松河田駅早稲田駅 (東京地下鉄)早稲田駅 (東京都交通局)千駄ケ谷駅・初台駅・都営大江戸線新宿駅は渋谷区、江戸川橋駅・都営大江戸線飯田橋駅は文京区、東西線飯田橋駅・JR線飯田橋駅・JR線市ケ谷駅・都営新宿線市ケ谷駅は千代田区、目白駅は豊島区を所在地とする駅である。このほか、駅の名称が新宿区に関係している(していた)駅がいくつか存在する。南新宿駅渋谷区にある小田急小田原線の駅。新宿地区の南にあることからこの名称がついている。柏木駅JR東中野駅の開業時の名称。柏木は北新宿周辺の地域名称で、かつては新宿区内の町名でもあった。1917年(6年)に名称変更し、東中野駅となる。牛込駅JR飯田橋駅の前身。甲武鉄道が市街地に延伸された1894年(27年)に四ツ谷駅・信濃町駅とともに開業。場所は牛込橋(現在のJR飯田橋駅西口の橋)から外濠に沿っておよそ100メートル南の地点。1928年(3年)飯田橋駅開業とともに廃駅。 廃止された鉄道1950年代当時の新宿区内の路面電車(トロリーバスも掲載)現在の東京都心部における市街地電車の機能は、かつて路面電車(いわゆる都電)が担っていた。利用者数がピークを迎える1950年代当時の規模は路線数(系統数)41、路線総延長は213キロメートル。山手線の駅同士を結ぶような系統も多く、系統間の乗り換えも手軽で、都心部の拠点と拠点を網の目状に結んでいた。新宿区内においては、新宿駅前・四谷三丁目・早稲田・飯田橋をターミナルとする10路線が敷設され、山手線各駅・丸の内・銀座などへの往来に頻繁に利用されていた。しかし高度経済成長とともに一般車両をはじめとする交通量は年々増加し、路面電車の平均運行速度は低下。これにより利用者数は減少をたどり、東京都交通局の収益は悪化した。このため代替の地下鉄建設計画が具体化し、路面電車は1960年代後半から徐々に撤去されることになった。都電27系統の一部と32系統のみ恒久存続が決定し、今日荒川線という名称で運行しているが、そのほかの路線は1972年(47年)11月までにすべて廃止された。新宿区内を運行していた10路線のうち、32系統以外は1963年(38年)から1970年(45年)にかけて廃止。今日、当時の路線の沿線地区にはおおむね代替の地下鉄路線が建設されている。3系統(飯田橋 – 品川駅前)現在のJR飯田橋駅東口を起点とし、外堀通りを南に沿って四谷見附・赤坂見附を経由し、虎ノ門交差点から桜田通りを南下し、赤羽橋・三田二丁目交差点を経由して泉岳寺・品川駅に至る路線。新宿区内には、外堀通り上に牛込見附停留所・新見附停留所・市ヶ谷見附停留所・本塩町停留所・四谷見附停留所・若葉一丁目停留所があった。1967年(42年)12月に廃止。7系統(四谷三丁目 – 品川駅前)現在の四谷三丁目交差点(丸ノ内線四谷三丁目駅の地上)を起点とし、外苑東通りを南に沿ってJR信濃町駅・青山一丁目交差点・青山公園を経由し、外苑西通りを南に沿って西麻布(霞町)交差点を経由し、天現寺橋から通りを東に沿って古川橋まで進み、古川橋から魚籃坂・伊皿子坂を経て泉岳寺前にて第一京浜に接続し、南下して品川駅に至る路線。新宿区内には、外苑東通り上に四谷三丁目停留所・左門町停留所・信濃町停留所が設置されていた。1969年(44年)10月に廃止。品97系統の前身。11系統(新宿駅前 – 月島通八丁目)現在のJR新宿駅東口広場を起点とし新宿通りを東に進み、四谷三丁目交差点・JR四ツ谷駅を経由して半蔵門交差点から内堀通りに沿って南東へ進み、桜田門・祝田橋を経由して日比谷交差点(日比谷線日比谷駅西端の地上)を東へ、晴海通りを南東に進み、銀座四丁目交差点・勝鬨橋を経由して月島通八丁目停留所(大江戸線勝どき駅の地上)に至る路線。1948年(23年)12月に起点はJR新宿駅の大ガード付近に移設。大ガードから靖国通りを東へ、新宿五丁目交差点(当時の四谷三光町交差点)付近で南下し新宿通りに接続し、以降、移設前の経路を辿る。新宿区内には、新宿通り上に新宿駅前停留所・角筈停留所・三光町停留所、新宿三丁目停留所・新宿二丁目停留所・新宿一丁目停留所・四谷四丁目停留所・四谷三丁目停留所・四谷二丁目停留所・四谷見附停留所が設置されていた。1968年(43年)2月に廃止。都03系統の前身。12系統(新宿駅前 – 両国駅前)JR新宿駅からJR四ツ谷駅までの経路は11系統と重複路線。JR四ツ谷駅から外堀通りを北上し、JR市ケ谷駅前で靖国通りを東へ、九段下交差点・神保町交差点・岩本町交差点・両国橋を経由して両国二丁目交差点を北上しJR両国駅西口広場に至る路線。1948年(23年)12月に11系統と同様起点が移設された。新宿区内の経路・停留所は3系統と11系統に重複。1970年(45年)1月に廃止。13系統(新宿駅前 – 水天宮前)現在の紀伊國屋書店新宿本店(新宿三丁目)付近を起点とし、新宿区役所第一分庁舎(歌舞伎町一丁目)前まで北上し、新宿遊歩道公園に沿って北東に進み、新宿六丁目交差点から文化センター通り・抜弁天交差点を経由して若松町交差点を経由して大久保通りを東へ進み、神楽坂上交差点を経由して飯田橋交差点から外堀通りを神田川に沿って東へ、秋葉原交差点(日比谷線秋葉原駅の地上)南の和泉橋から水天宮通り(人形町通り)を南下し、小伝馬町交差点・人形町交差点を経由して水天宮前交差点(半蔵門線水天宮前駅北端の地上)に至る経路。1948年(23年)12月に起点は11系統・12系統と同じく大ガード付近に移設。大ガードから靖国通りを東へ、新宿五丁目交差点(当時の四谷三光町交差点)付近で北上して新宿六丁目交差点に接続し、以降、移設前の経路を辿る。新宿区内には新宿駅前停留所・角筈停留所・三光町停留所・新田裏停留所・大久保車庫停留所・東大久保停留所・河田町停留所・若松町停留所・牛込柳町停留所・山伏町停留所・牛込北町停留所・神楽坂停留所・筑土八幡停留所が設置されていた。1970年(45年)1月に廃止。14系統(新宿駅前 – 荻窪駅前)現在のJR新宿駅西口を起点とし、青梅街道に沿ってJR荻窪駅北口広場に至る路線。新宿区内には、青梅街道上に新宿駅停留所・柏木一丁目停留所・成子坂下停留所が設置されていた。都電唯一の狭軌線。1963年(38年)12月に廃止。→都電杉並線参照。15系統(高田馬場駅 – 茅場町)現在のJR高田馬場駅の駅前広場を起点とし早稲田通りを東へ、馬場口(戸塚二丁目)交差点から通りを北上し、高戸橋交差点から新目白通り(通称、十三間通り)を東へ、江戸川橋交差点(有楽町線江戸川橋駅西端の地上)から目白通りを東へ、飯田橋を経由して九段下交差点(東西線九段下駅の地上)まで進み、九段下交差点から靖国通りを東に進み、小川町交差点(新宿線小川町駅西端の地上)から本郷通りを南へ進み、大手町交差点(三田線大手町駅北端の地上)から永代通りを東へ進み、茅場町交差点(東西線茅場町駅東端の地上)に至る路線。新宿区内には、早稲田通り上に高田馬場駅停留所・戸塚二丁目停留所、新目白通り上に面影橋停留所(都電荒川線の駅として現存)・早稲田停留所(都電荒川線の駅として現存)・早稲田車庫停留所・鶴巻町停留所、目白通り上に石切橋停留所・東五軒町停留所・大曲停留所が設置されていた。1968年(43年)9月に廃止。33系統(四谷三丁目 – 浜松町一丁目)現在の四谷三丁目交差点(丸ノ内線四谷三丁目駅の地上)を起点とし、外苑東通りを南に沿ってJR信濃町駅・青山一丁目交差点・六本木交差点を経由して飯倉交差点まで進み、神谷町交差点(日比谷線神谷町駅の地上)まで北上後、御成門交差点(三田線御成門駅の地上)を経由して第一京浜上の浜松町一丁目交差点に至る路線。新宿区内の経路・停留所は7系統と重複。1969年(44年)10月に廃止。39系統(早稲田 – 厩橋)現在の都電荒川線早稲田駅を起点とし新目白通りを東へ、江戸川橋交差点(有楽町線江戸川橋駅西端の地上)から目白通りを東へ、大曲交差点から安藤坂を北へ進み、伝通院前信号機(富坂警察署付近)から本郷通りを東に進み、本郷三丁目交差点・御徒町駅を経由して厩橋停留所(大江戸線蔵前駅東端の地上)に至る路線。新宿区内の経路・停留所は15系統と重複。1968年(43年)9月に廃止。 道路 高速道路・国道・東京都道新宿区内の主な道路と地点名(2006年3月現在)新宿区内の主な道路には次のものがある。カッコ内の名称は、一般的な地図や道路上の標識に記載してある名称(一般名称)。首都高速道路4号新宿線5号池袋線中央環状新宿線(C2)国道20号(新宿通り – 甲州街道)東京都道8号千代田練馬田無線本線(目白通り)支線(新目白通り)東京都道302号新宿両国線本線(靖国通り – 青梅街道)支線(職安通り – 余丁町通り)東京都道305号芝新宿王子線(通り)東京都道317号環状六号線(山手通り)東京都道319号環状三号線(外苑東通り)東京都道405号外濠環状線(外堀通り)東京都道414号四谷角筈線東京都道418号北品川四谷線(外苑西通り)東京都道433号神楽坂高円寺線(大久保通り)東京都道440号落合井草線(新青梅街道) 建設中・計画中の道路新宿区の都市計画道路[9]に基づき、主に以下の路線が建設・計画中である。外苑東通りの整備(環状3号線の一部)新目白通り鶴巻町交差点より南下しJR信濃町駅付近までの整備が計画されている。外苑西通りの北への延伸(環状4号線の一部)富久町西交差点(外苑西通りの北端)を起点に、おおまかに、東京都立小石川工業高等学校を経て若松町交差点付近に接続する道路が計画されている。この区間の一部は第三次事業化計画優先整備路線(都-27)。御苑通りの未通区間の建設(環状5号線の一部、環5ノ1)新宿二丁目交差点から南に延伸し、新宿御苑の西端に沿って紀伊國屋書店新宿南店(渋谷区千駄ヶ谷五丁目)付近で通りと接続する道路が計画されている[10]。東京都立新宿高等学校の旧校舎に付属する部室棟やプールがこの計画ルート上に建てられていたため、2005年(17年)に計画ルートを避ける位置に新校舎を完成させた。この区間の一部は第三次事業化計画優先整備路線(都-37)。2006年(18年)8月15日に事業認可取得。2011年(23年)度完成を目標に計画されている。この区間は新宿御苑の一部を削ることになるため、ラクウショウや地下水等の自然環境への配慮が行われた。そのため、新宿御苑に面する区間は、北行(池袋方面)の2車線が地下、南行(渋谷方面)の2車線が地上の二重構造となり、当初計画幅員の半分以下に抑えられている[11]。なお、現行の通り(伊勢丹と高島屋タイムズスクエアを通る路線)は、都市計画上「環5ノ1支1」と表示されている。山手通りの整備(環状6号線の一部)中央環状新宿線(C2)の開通にあわせて、地上部の山手通りが拡幅整備中である。職安通り(東京都道302号支線)の青梅街道接続(東京都市計画道路幹線街路放射第6号線)北新宿一丁目交番から淀橋(中野坂下信号機付近)を結ぶ4車線の直線道路が21年度完成を目標に計画されている。2006年(18年)6月25日に2車線が暫定交通解放された。大久保通りの文京区への接続(放射25号線)筑土八幡町交差点(大久保通り上、東京厚生年金病院付近の交差点)から牛天神下交差点(文京区後楽二丁目)を結ぶ直線道路が計画されている。(途中、目白通りを横断する。)文京区側経路(目白通り(新隆慶橋) – 牛天神下交差点)は開通済み。新宿区側経路は第三次事業化計画優先整備路線(都-15)。2006年(18年)6月30日に事業認可取得。2010年(22年)度完成を目標に計画されている。小滝橋から西池袋間(補助73号線)小滝橋交差点を起点に、おおまかに、新宿区立戸塚第三小学校 – 新宿区立中央図書館 – 七曲坂 – 新宿区立落合中学校 – 下落合ことぶき館 – 目白病院 – 上り屋敷公園(豊島区西池袋二丁目)を経て劇場通り・池袋警察署前に接続する道路が計画されている。 新宿区内の愛称道路新宿区の区道(一部例外あり)のうち愛称がついている路線がある。これらはいずれも1988年(63年)12月に新宿区が愛称を募集して命名。地域の利便性を考慮して選考したため、周辺他区に関係の深い名称のものもある。(哲学堂は中野区内の建造物、江戸川橋は文京区内の橋。)牛込中央通り江戸川橋通り神楽坂通り上落合中通り区役所通りグランド坂通り小滝橋通り三栄通り女子医大通りGFDL
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