相模原市の女性用風俗と女性専用マッサージなら安心と実績のルナアンジェ

女性専用高級プライベートサロン~誰にも秘密の癒しの時間~

Lune-ange

相模原市の女性専用マッサージ
ルナアンジェは、男性セラピストによる
女性専用マッサージのプライベート出張サロンです。
貴女だけの、誰にも知られることのない特別な時間。
誰にも言えないような、貴女が求めている
マッサージがここにあります。
つい妄想してしまうマッサージ。
パートナーには言えないような内容。
誰にも言えないような願望。など
施術前のヒアリングで素直にお聞かせ下さい。
できるだけ希望に沿った内容で行わせて頂きます。
女性専用マッサージで極上の時間を。

長年キャリアを積んだプロによって
頭の中も体中も快感に包まれる。
数あるお店の中で最も選ばれる理由は
20年の経験による技術にほかなりません。

コンセプトは「貴女の願望の実現」です。
探し求めていた体験がここにあります。

自分への御褒美に、気分転換に、
心と体の疲れ解消に、非日常の刺激に、
オールハンドのマッサージで
癒しをご提供いたします。

また、相模原市の女性専用マッサージ
ルナアンジェでは
女性専用マッサージやエステ以外にも、
誰にも相談できない体や心の悩み解消をする
カウンセリングも行っています。

経営者様を初め、芸能界や社会的地位のある方にも
多くご利用いただいております。
プライバシーの厳守は固くお約束いたします。

相模原市の
女性専用マッサージやエステを
初めて利用する方も、
ワンランク上の女性専用マッサージや
エステを利用したい方も、
ルナアンジェで《誰にも秘密の癒しの時間》
をどうぞご体験ください。

誰にも言えないムラムラした気分を
絶対秘密厳守で安全に、
誰にも知られることなく
プロの技術で解消してみたいなら
どうぞお好きなメニューをお選び頂き、
ご予約下さい。
きっと他店では体験できないような
想像以上の満足をお約束いたします。

 

.

  

  • 相模原市について:さがみはらし相模原市左上上:丹沢山地、左上下:相模総合補給廠、右上:相模湖左中:橋本地区、右中:小田急相模大野駅左下:JAXA相模原キャンパス、右下:市民桜祭り相模原市旗相模原市章国 日本地方 関東地方都道府県 神奈川県団体コード 14150-0面積 328.83km2総人口 719,611人(推計人口、2012年5月1日)人口密度 2,190人/km2隣接自治体 神奈川県:座間市、大和市、厚木市愛川町、清川村、山北町東京都:町田市、八王子市、檜原村山梨県:上野原市、道志村市の木 ケヤキ市の花 アジサイ他のシンボル 市の鳥:ヒバリ市の色:緑市の歌:相模原市民の歌相模原市役所所在地 〒252-5277神奈川県相模原市中央区中央二丁目11番15号外部リンク 相模原市■―政令指定都市/■―市/■―町/■―村;;相模原市(さがみはらし)は、神奈川県北部にある政令指定都市。緑区、中央区、南区の3区で構成される。目次1概要2地理2.1地形2.1.1相模原台地2.1.2津久井地域3歴史3.1先史・古代から中世3.2近世3.2.1幕藩支配3.2.2新田開発3.3以降3.3.1相模原市発足までの沿革3.3.2相模原市発足以降の沿革3.3.3軍都計画3.3.4相模原町の発足3.3.5中核市昇格3.3.6の大合併3.3.7政令指定都市移行へ4人口5市政5.1歴代首長5.2市組織5.3市議会6国政・県政6.1国政6.2県政7公共機関7.1警察7.2消防7.3国の機関7.4医療7.4.1救急指定病院7.4.2夜間・休日診療7.5その他8旧跡・名所・文化施設・その他8.1名所・旧跡8.2公園8.3緑道8.4図書館8.5博物館・記念館8.6ホール8.7レジャー9祭事・催事9.1祭り9.2伝統芸能10経済10.1ラーメン店10.2主な商業施設10.3金融機関11産業11.1農業11.2工業11.3市内の主な企業11.4以前拠点を置いていた企業12教育12.1大学12.2短期大学12.3高等学校12.4中等教育学校12.5幼稚園・小学校・中学校12.6インターナショナルスクール12.7小中一貫校12.8認定こども園12.9特別支援学校12.10学校教育以外の施設13軍事施設13.1終戦時の軍事施設14交通14.1鉄道14.1.1主要部へのアクセス14.1.1.1橋本駅14.1.1.2相模大野駅14.1.2鉄道の計画14.1.3計画が中止になった鉄道路線14.2道路14.3建設中および計画中14.4路線バス15姉妹・提携都市15.1日本国内15.2日本国外16メディア17相模原市出身の人物18相模原を舞台とする作品18.1相模原市内が舞台ではないがロケを行った作品19町名・字名等19.1町名・字名及び郵便番号19.1.1緑区19.1.2中央区19.1.3南区19.2郵便番号19.3電話番号の市外局番及びMA19.4住所表記の変遷(2006年以降)20その他21脚注22関連項目23外部リンク概要相模原市は、神奈川県内では横浜市、川崎市についで第3位の人口規模を擁する。2007年3月11日の2町の編入合併により人口は70万人を超え、全国の市で第18位である。相模原市が市制施行されたのは1954年(29年)だが、戦後に純粋に市制施行された都市の中では最も人口が多い(さいたま市、北九州市が誕生したのは戦後だが、これら2市は複数の自治体の新設合併により誕生した都市であり、合併時に戦前に市制施行された都市が含まれる)。2010年3月末までの政令指定都市移行と、首都圏サミットへの参加を目指していたが、2009年10月2日に原口一博総務大臣が必要な作業に入るよう指示し、その後、10月23日の閣議で相模原市を2010年4月1日を以て政令指定都市に昇格させることが決定された[1]。非道府県庁所在地では5番目、戦後に市制施行された都市では初の政令指定都市の誕生となり、2009年4月1日に移行した岡山市に次ぐ19番目の政令指定都市(緑区・中央区・南区の3区制)へ移行した。これにより、神奈川県は全国で唯一の3つの政令指定都市を持つ都道府県となる。経済面や鉄道・道路などの地理上、県内他市よりも東京都、特に多摩地域とのつながりが強い。また、首都圏南西部の核として国から位置づけられている(首都圏業務核都市指定都市)。しかし、東京都心まで電車で約30分程度(相模大野より小田急小田原線の快速急行の場合)であり、産業構造の転換により大型工場の撤退が相次いだことで、ベッドタウンとしての面が一層強まっており、業務機能の集中は弱いのが現状である。そのため、全国で唯一、中心市街地法で都市核が複数(橋本・相模大野)認められている都市である。旧市域は概ね3地区に分けられている(橋本を中心とした北部地区、相模原駅付近・中央地区を中心とした中部地区、相模大野を中心とした南部地区)。地理旧津久井郡編入前の市域のランドサット衛星写真2006年3月の合併以前の旧相模原市域は、隣接する町田市との経済的・地理的・文化的関わりが深く、共に業務核都市に一つの都市として指定されていた。近年、東京都心へ旧市域南部の相模大野から30分ほど、旧市域北部の橋本から40分ほどで行けるその交通の利便性から、東京のベッドタウンとしての人気が高まり人口が爆発的に伸びている。特に20代、30代、50代周辺の人口が多く、市全体を活気ある雰囲気にしている。市内には相模原公園や相模原北公園をはじめとした大規模な公園が点在していることや、比較的自然な環境が近いことなどから若年世帯を中心とした人口の流入が続いている。市内に大学が多いことや、周辺都市の大学も相模原市内の駅を最寄とする場合が多く、更に多数の大学を抱える八王子市への交通が便利なため、学生の街としての顔も併せ持つ。また、市内には宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙科学研究所相模原キャンパス(開所時は文部省宇宙科学研究所)があり、日本の宇宙科学の研究拠点として知られる。また編入した旧津久井郡4町のうち、城山町と津久井町は橋本駅を最寄り駅として利用しており、国道413号(津久井街道)を介して相模原市中心部との結びつきがあるのに対し、相模湖町と藤野町は相模原市中心部よりも、JR中央本線や国道20号(甲州街道)を介して、八王子市との結びつきの方が強い。地形相模川左岸の相模原台地上に位置する平坦な東部・旧相模原市域(中央区・南区および緑区東部)と、南の丹沢山地と北の高尾山・陣馬山などの間に広がる山地を相模川などが刻み、河岸段丘上にわずかな平坦面が散在する西部・津久井地域(旧津久井郡、緑区の大半)とに分けることができる。ただし、津久井地域のうち旧城山町東部は地形的に連続する旧相模原市域と合わせて相模原台地の一部として理解するのが適当である。相模原台地新橋付近(厚木市上依知)から望む相模原台地相模原台地(相模野台地とも呼ばれる)は相模川が作った扇状地が隆起して形成された洪積台地である。西側の相模川に沿って、気候変動や海水面の変化によって形成された河岸段丘が発達している。大きく3段に分けられる段丘面のうちでは上段(相模原面)が最も広く、旧市域の半分以上を占め、旧城山町東部の大半もこの段丘面上に広がる。緑区川尻(旧城山町)の川尻八幡宮付近の標高約180mを最高点に南東へ向かって徐々に高度を下げ、緑区橋本六丁目の神明大神宮付近で約140m、南区東大沼二丁目の大沼神社付近で約100m、南区相南三丁目の東海大学付属相模高等学校付近で約85mとなり、南の大和市や座間市に続く。段丘面上は平坦ではあるが水に乏しく、利用が進まずに原野が広がっていた。相模原または相模野とは、主にこの原野について呼んだものである。江戸時代以降に行われた新田開発によって畑と雑木林の広がる景観となった。日中戦争下、1930年代に新興工業都市の政策により、軍事施設(当市域では主に陸軍)が相次いで進出し、北部では「軍都計画」と呼ばれる大規模な都市計画に基づく土地区画整理事業が当時の内務省神奈川都市計画地方委員会(野坂相如、浅野英ら)によって行われた。1945年の敗戦によって都市建設は中断したが、戦後しばらく経ってから区画整理事業は再開し、完成した。そして1960年代以降急速な都市化が進行した。現在では旧軍都計画区域を中心とする北半部および南東部の小田急線沿線はほぼ完全に市街化しているが、南区麻溝台・新磯野地区には農地が広がっている。なお、旧軍施設の中には戦後米軍に接収されたものも多く、現在も返還されていない区域が旧相模原市域の面積の約5%を占める。緑区久保沢から下九沢、中央区上溝を経て南区下溝まで上段と中段(田名原面)の境をなす段丘崖は「横山」と呼ばれる。「ハケ」とも呼ばれる段丘崖の湧水を水源に鳩川、姥川、道保川が段丘崖に並行して南東へ流れるが、これはかつて相模川がこの堆積面上を流れていたときの流路跡であると考えられている。下段(陽原[みなばら]面)は3段の中では最も面積が狭く、主に中央区田名地区内の一部(陽原・望地・塩田)を占める。これらの段丘面の下に現在の相模川による沖積低地が形成されているが田名よりも上流側では幅が狭く、川が南へ向きを変える南区当麻から磯部よりも下流側でようやく広がりを見せる。田名の望地河原や当麻、磯部地区が当市域内では数少ない水田地帯となっている一方、上流側の小倉橋、大島河原から水郷田名(田名久所[ぐぞ]地区)にかけての区域は期から風光明媚な景勝地として知られている。当市域の北から東にかけて東京都町田市との境界となっている境川は多摩丘陵を刻む小河谷である「ヤト」(谷戸)や、鳩川などと同じくハケの湧水を水源としているが、これも元の相模川の流路であったと考えられている。以前は激しく蛇行していたために、わずかの大雨ですぐに洪水を起こす川だった。そのために戦後徐々に河川改修が進められて橋本付近より下流では川幅が広げられて流路も直線化された。しかし蛇行していた旧流路によって定められていた都県境の変更は、特に町田市との間でほとんど進まず、相互に「川向こうの飛地」を多く抱えている。津久井地域緑区川尻より望む丹沢山地(蛭ヶ岳-丹沢山)の山並み相模川上流に位置する相模湖。1947年に完成し、戦後にできたダム湖としては日本初である。宮ヶ瀬ダム建設に伴って形成された宮ヶ瀬湖。周囲の景観の調和、歴史的価値などの観点から評価され、「ダム湖百選」に認定されている。緑区の中・西部で区全体の面積の9割以上を占める津久井地域は、相模原台地の北西端に位置する旧城山町東部を除くと、ほぼ全域を南の丹沢山地や北の秩父山地に連なる山地が占め、両山地の境界をなす相模川と、道志川をはじめとするその支流沿いに河岸段丘が散在するのみの平地の少ない地域である。道志川の南側、旧津久井町南西部の青根、青野原、鳥屋(とや)地区は、丹沢山地の北部によって占められ、大室山から同山地最高峰の蛭ヶ岳を経て丹沢山に連なる主稜線で南の足柄上郡山北町と境を接する。また、主脈と呼ばれる蛭ヶ岳から焼山へ至る稜線は北西側の道志川流域と南東側の中津川支流の早戸川流域(いずれも相模川水系)を分ける尾根となっている。標高は低いながらも険しい壮年期の山地であり、平坦地は道志川南岸の高位に散在する狭小な河岸段丘と、串川上流にわずかに伸びる谷底平野が分布するのみである。前者の河岸段丘群を貫通する国道413号に沿って青根、青野原の集落が、後者の谷底平野に鳥屋の集落とわずかな耕地が分布する外は山林に覆われている。深い谷をうがち谷底平野をほとんど持たない道志川の北側では、石老山、石砂山を経て山梨県上野原市と道志村の境をなす尾根筋が大きく道志川の側に偏って伸び、北の相模川の河谷へ向かって徐々に高度を下げる丘陵によって占められる。旧藤野町南部の牧野(まぎの)地区の集落はこの主に丘陵地の緩斜面に散在する。西に隣接する上野原市秋山地区からは秋山川が流入し、日連(ひづれ)大橋付近で相模川に合流する。一方、相模川の北側では和田峠、陣馬山、景信山、小仏峠、城山(小仏城山)、大垂水峠と連なる尾根筋によって北の東京都八王子市および檜原村と境を接し、西隣の山梨県(上野原市)との境界をなして南流する境川と東側の沢井川のつくる河谷に旧藤野町北部の佐野川、沢井の集落が分布する。これらの山地の間を東西に貫流するのが相模川である。一般に山梨県内では「桂川」と呼ばれ、神奈川県に入って「相模川」と呼ばれるようになるとされているが、旧相模湖町では北岸の与瀬、小原(おばら)両地区を合わせて「桂北地区」と呼んだり、さらに下流側の千木良、若柳地区間に架かる橋を「桂橋」と呼んでいる例も見られる。上流の上野原市と接する小淵、名倉(旧藤野町)から下流側の中沢、城山、谷ヶ原(旧城山町)にかけて、相模川の両岸には相模原台地と同時期に形成された数段の河岸段丘が発達している。この平坦面を連ねて甲州街道(国道20号)、JR中央本線、中央自動車道が通過し、東京(江戸)と甲信地方を結ぶ重要な交通路となっている。旧津久井町北東部では相模川南岸に比較的面積の広い段丘面が広がり、この段丘上に位置する中野地区は津久井地域の主邑として行政の中心となっている。焼山から道志川・相模川と串川に挟まれて伸びる尾根筋の末端の城山は相模川を隔てて相模国中央部の広大な平坦地を見下ろす要害の地に位置し、鎌倉時代に三浦氏支族の津久井氏によって築城されたことからこの名があるとされている。段丘上の平坦地に対して相模川の谷底の平坦地(谷底平野)の発達は悪い。この地形を利用して1947年(22年)に相模ダムが、また1965年(40年)には城山ダムが建設され、それぞれのダムによる人造湖として相模湖および津久井湖が形成された。道志川には1955年(30年)に道志ダム(奥相模湖)が建設され、また2000年(12年)に完成した中津川の宮ヶ瀬ダムのダム湖(宮ヶ瀬湖)の一部は津久井町にかかっている。これらのダム湖、および川尻地区北部(旧城山町)のヤト(谷戸)の奥に本沢ダムを築いて津久井湖から汲み上げた水を貯めて作られた城山湖との間は導水路で結ばれ、一体的な水資源管理が行われている。歴史相模国の北部に位置し、旧相模原市域は高座郡に属した。津久井地域の大部分は中世まで愛甲郡に属し「奥三保」と呼ばれていたが(相模川左岸の津久井町三井および城山町北部は高座郡)、江戸時代には同郡から分離して津久井県と称し、1870年(3年)に津久井郡と改称された。なお、この項では2006-2007年の旧津久井郡4町との合併までは主に旧相模原市域について述べる。津久井地域の歴史については津久井郡の項を参照。先史・古代から中世・相模川沿いの段丘上には古くからの人々の生活の痕跡が認められるが、市域でも後期旧石器時代末の建物跡とされる田名向原遺跡や、縄文時代中期の大規模集落跡である勝坂遺跡が分布する。・文献資料においては、平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』(『和名抄』)で相模国高座(たかくら)郡に設置されたと記載されている13郷1駅のうち塩田郷(読みはシホタ)が旧市域内に位置していると比定されている。現在、旧市域南西部の田名地区内の集落名「塩田」が、古代の郷名を継承するものであると考えられている。・平安時代後期から鎌倉時代にかけて、市域は武蔵国多摩郡に成立した横山荘を本拠に同国西南部から相模国北部にかけて割拠した同族的武士団である横山党の勢力下にあり、同武士団の中には粟飯原(相原)、小山、矢部、田名など旧市域北部の地名に由来する名字が見られる。また、旧市域南部は高座郡渋谷荘を本拠とする渋谷氏の勢力下にあった。・鎌倉時代後期には、当麻に時衆教団(時宗)の道場(無量光寺)が開かれた。・室町時代には上杉氏、戦国時代には北条氏の支配下であった。近世幕藩支配江戸時代初期の1633年(寛永10年)には旧市域西部の相模川沿いの村が武蔵忍藩の飛地領とされ、残りの村は幕府直轄領(天領)または旗本の支配地とされたが、時代が下るにつれて支配が細分化されて非常に錯綜したものになっていった。旗本領とされた村の多くは2家以上が支配する相給とされ、幕府あるいは藩との相給とされる村もあった。幕末の段階で1藩単独の支配となっていたのは、旧市域では下野烏山藩領の上矢部村、大島村、田名村の3村のみである。また、清兵衛新田が幕府単独の、上九沢村が旗本佐野家のみの支配を受けていた。1867年(慶応3年)の大政奉還時点での旧市域各村の支配は以下の通りである。・相原村-旗本領(佐野家、藤沢家)・橋本村-旗本領(藤沢家、別所家、石野家、高木家)・小山村-幕府領、烏山藩領・清兵衛新田-幕府領・上矢部村-烏山藩領・矢部新田村-烏山藩領、旗本領(鈴木家)・淵野辺村-幕府領、烏山藩領、旗本領(岡野氏2家)・鵜野森村-幕府領、旗本領(永井家)・上鶴間村-幕府領、旗本領(大岡家)・上九沢村-旗本領(佐野家)・下九沢村-旗本領(佐野家、加藤家)・大島村-烏山藩領・田名村-烏山藩領・上溝村-幕府領、烏山藩領、旗本領(石野家、森川家、戸田家、高木家、佐野家)・下溝村-幕府領、烏山藩領、荻野山中藩領・当麻村-幕府領、旗本領(千葉家、大久保家)・新戸村-幕府領、旗本領(土屋家、岡部家)・磯部村-幕府領、旗本領(町野家、大津家、大久保家)これらのうち、幕府領および旗本領は、1868年(慶応4=元年)に神奈川府(のち神奈川県)が設置されると、その管轄となった。また、1871年(4年)7月の廃藩置県によって、烏山藩領は烏山県、荻野山中藩領は荻野山中県の管轄となったが、同年11月の府県再編によって神奈川県に編入された。新田開発原野の広がった台地上段の開発は17世紀半ば以降、境川沿いの村を親村とする新田開発によって始まった。最も代表的なものが小山村の豪農である原清兵衛によって1843年(天保14年)に着手され、1856年(安政3年)までに49名が入植して200ha余りが開拓された清兵衛新田である。ほかに矢部新田、淵野辺新田、大沼新田、溝境新田が開かれた。水が乏しいためにこれらの新田は水田ではなく畑地としての開拓であり、新田集落のまわりには薪炭供給のための雑木林が作られた。相模原に広がる雑木林はこうして植林された人工林である。台地上の開拓は以降も進められた。この時期の開拓地は新開と呼ばれ、橋本新開、下溝新開、谷口新開、篠原新開、中村新開、中和田新開がこれにあたる。また、戦後も日本国外からの引揚者や帰農者、戦災者などを入植者として受け入れて旧軍用地の麻溝台や新磯野を中心に開拓が行われた。新田のうち、「清兵衛新田」と「矢部新田」の地名は合併後も大字として残された。「矢部新田」は住居表示の対象区域とならなかった米軍相模総合補給廠内に現存する。「清兵衛新田」は1974年(49年)に最後まで残った区域に住居表示が実施されて消滅するが、新町名である「清新」はこれに由来するものである。以降相模原市発足までの沿革・1889年(22年)4月1日-町村制施行により高座郡相原村・麻溝村・新磯村・大沢村・大野村・溝村が誕生する。旧田名村は単独で町村制による田名村となった。・相原村、橋本村、小山村、清兵衛新田の合併により相原村が誕生する。・当麻村、下溝村の合併により麻溝村が誕生する。・新戸村、磯部村の合併により新磯村が誕生する。・大島村、下九沢村、上九沢村の合併により大沢村が誕生する。・上矢部村、矢部新田村、淵野辺村、鵜野森村、上鶴間村の合併により大野村が誕生する。・上溝村が溝村と名称変更する。・1926年(15年)1月1日-溝村に町制が施行され、上溝町が誕生する。・1941年(16年)4月29日相原村、麻溝村、新磯村、大沢村、大野村、上溝町、座間町、田名村の新設合併により相模原町が誕生する。・町役場を淵野辺に置く。人口3万9,718、面積107.99km2。合併当時は「全国一面積の広い町」であった。・1941年(16年)9月1日町役場を上溝(旧上溝町役場)に移転・1948年(23年)9月1日座間町が分立する。面積90.77km2となる。・1954年(29年)4月29日町役場を清兵衛新田(現在地)に移転。相模原市発足以降の沿革40年代まで・1954年(29年)11月20日市制が施行され、相模原市となる。人口8万0,374(全国で453番目、県下で10番目)。・1955年(30年)7月11日工場誘致条例を制定する(1961年(36年)3月1日廃止)。・1957年(32年)11月24日市立体育館が開設される。・1958年(33年)1月1日消防本部を設置する。・1958年(33年)1月15日市民の歌を制定する。・1958年(33年)8月1日首都圏整備法による市街地開発区域の指定を受ける。・1960年(35年)6月1日人口が10万を超える。・1961年(36年)1月1日市営工業用水道が完成する。・1962年(37年)2月20日交通安全都市宣言を制定する。・1962年(37年)6月14日相模原市開発公社(現:(財)相模原市都市整備公社)が設立される。・1962年(37年)12月13日清掃事業所(現:東清掃事業所)が開設される。・1963年(38年)7月18日消防署に救急車を配備、救急業務を開始する。・1963年(38年)10月18日相模原市農業協同組合が設立される。・1964年(39年)1月30日日本電信電話公社(当時)相模原電報電話局が開設される。・1964年(39年)3月16日相模原郵便局が開設される(市内初の普通郵便局)。・1964年(39年)5月1日住居表示を開始する。・1964年(39年)11月20日市制10周年事業として相模原市史発刊を開始する(1972年(47年)全7巻で完了)。・1965年(40年)3月1日市営火葬場が開設される。・1965年(40年)11月20日市立市民会館(相模原市民会館)が開設される。・1967年(42年)6月15日相模原商工会館が開設される。・1967年(42年)8月28日人口が20万を超える。・1967年(42年)8月公共下水道事業を開始する。・1968年(43年)3月1日市の木「けやき」を制定する。・1968年(43年)5月1日市立青年の家が開設される。・1968年(43年)6月26日第1次相模原市総合計画を策定する。・1968年(43年)7月1日市民プールが開設される。・1969年(44年)7月31日座間小銃射撃場が日本政府に全面返還される。・1969年(44年)8月31日市役所本庁舎(現庁舎)が完成する。・1970年(45年)7月1日給食施設のない小中学校のため、南部学校給食センターが開設される。・1971年(46年)7月5日人口が30万を超える。・1971年(46年)7月26日北里大学病院が開院する。・1972年(47年)2月21日相模大野駅周辺土地区画整理事業が始まる。・1972年(47年)5月米軍戦車搬出阻止運動が起こる(?11月)。・1972年(47年)7月1日消防本部新庁舎が完成する。・1972年(47年)9月1日市立老人福祉センター「渓松園」が開設される。・1973年(48年)5月1日保存樹林第1号を指定する。・1973年(48年)7月20日相模原メヂカルセンター(急病診療所)が開設される。・1974年(49年)3月第2次相模原市総合計画を策定する。・1974年(49年)4月6日市制施行20周年を記念して、第1回市民桜まつりが開催される(?7日)。・1974年(49年)11月20日市立図書館が現在地に開設される。・1974年(49年)11月20日市の花「あじさい」、市の鳥「ひばり」を制定する。・1974年(49年)11月30日キャンプ淵野辺が日本政府に全面返還される。50・60年代・1975年(50年)3月31日市財政白書「こども急増びんぼう白書」を発行する。・1975年(50年)4月1日市立療育センター「陽光園」(心身障害者訓練センター)が開設される。・1976年(51年)6月19日夜間急患診療を開始する。・1977年(52年)6月6日人口が40万を超える。・1977年(52年)11月1日人口が横須賀市を抜き、人口規模で県内第3位になる。・1979年(54年)4月13日いきがい事業団が発足する。・1979年(54年)4月27日県立相模原公園が開設される。・1979年(54年)5月13日市のシンボルカラー「みどり」を制定する。・1979年(54年)7月1日公共下水道処理を開始する。・1979年(54年)11月18日市民憲章を制定する。・1980年(55年)9月27日日本国有鉄道(当時)横浜線の複線化が市内全区間で完成する。・1980年(55年)12月6日南清掃工場が完成する。・1981年(56年)4月1日米陸軍医療センターが日本政府に全面返還される。・1981年(56年)4月10日市立市民福祉会館(相模原市立あじさい会館)が開設される。・1981年(56年)5月1日行政用同報防災無線「ひばり放送」が開始される。・1981年(56年)11月1日市立総合体育館が開設される。・1982年(57年)4月9日相模原市が障害者福祉都市に指定される。・1982年(57年)12月5日買物公園道路「グリーンプラザさがみはら」が完成する。・1983年(58年)8月29日市域南部の行政拠点となる市南合同庁舎が完成する。・1983年(58年)11月18日市立市民健康文化センターが開設される。・1984年(59年)4月1日市みどりのまちづくり基金と緑地保全基金を制定する。・1984年(59年)6月1日長野県に「市民たてしな自然の村」が開村される。・1984年(59年)12月3日核兵器廃絶平和都市を宣言する。・1985年(60年)2月第3次相模原市総合基本計画を策定する。・1985年(60年)9月18日市立けやき会館、市立けやき体育館が開設される。・1985年(60年)10月6日中国・無錫市と友好都市を締結する。・1985年(60年)11月16日国民年金保養センター「さがみの」が開設される。・1985年(60年)11月17日市立相模原麻溝公園が開設、ふれあい動物広場が利用開始される。・1986年(61年)7月1日公文書公開制度が開始される。・1986年(61年)10月18日市立教育会館が開設される。・1987年(62年)1月5日住民登録オンラインが開始される。・1987年(62年)3月市営工業用水道が廃止される。・1987年(62年)4月1日市立ひばり球場、県立相模原球場が開設される。・1987年(62年)8月10日人口が50万を超える(全国で22番目)。・1987年(62年)11月8日友好都市関係として銀河連邦をつくり、サガミハラ共和国が建国する。・1987年(62年)11月15日市立相模川ふれあい科学館が開設される。・1988年(63年)3月13日JR東日本横浜線古淵駅が開業する。・1988年(63年)10月1日複合都市「ロビーシティ相模大野」が発足する。・1988年(63年)11月1日初めての有料市営駐車場、相模大野立体駐車場が完成する。1989年(元年)以降・1989年(元年)4月1日文部省(当時)宇宙科学研究所が移転する。・1989年(元年)4月28日(財)市民文化財団が発足する。・1989年(元年)10月26日(財)相模原市体育協会が発足する。・1989年(元年)12月1日相模原南メヂカルセンター(急病診療所)がグリーンホール相模大野内に開設される。・1990年(2年)1月8日市立文化会館がグリーンホール相模大野内に開設される。・1990年(2年)1月9日市立相模大野図書館がグリーンホール相模大野内に開設される。・1990年(2年)3月30日京王帝都電鉄(当時)相模原線が、部分開業していた南大沢駅より延伸し、京王相模原線橋本駅が開業する。・1990年(2年)5月14日消防指令センターが完成する。・1990年(2年)9月25日市内初の百貨店、伊勢丹相模原店が開店する。・1991年(3年)1月20日市立淵野辺公園アイススケート場・水泳プール(銀河アリーナ)が開設される。・1991年(3年)3月16日JR東日本相模線が電化完成する。・1991年(3年)5月31日カナダの旧スカボロ市(現トロント市)と友好都市提携。・1991年(3年)9月8日市立北総合体育館が開設される。・1991年(3年)12月1日北清掃工場が完成する。・1992年(4年)7月4日さがみはら男女平等憲章を制定する。・1992年(4年)8月19日(財)みどりの協会が発足する。・1992年(4年)8月21日(財)産業振興財団が発足する。・1992年(4年)10月3日第9回全国都市緑化神奈川フェアが開催される(グリーンウェーブ・相模原’92)。・1992年(4年)10月26日市営斎場が完成する。・1992年(4年)11月20日相模原市環境宣言を制定する。・1993年(5年)4月5日粗大ごみの戸別収集を開始する。・1993年(5年)4月12日市立産業会館が開設される。・1995年(7年)11月20日市立博物館が開設される。・1996年(8年)4月20日市立相模川自然の村公園が開設される。・1997年(9年)5月20日市立総合水泳場(さがみはらグリーンプール)が開設される。・1997年(9年)8月1日市公式Webサイトが開設される。・1997年(9年)11月1日相模原市民ギャラリーが開設される。・1998年(10年)9月12日さがみはらグリーンプールを会場に、かながわ・ゆめ国体夏季大会が開幕する(?15日)。・1998年(10年)11月3日電話番号の逼迫対策に伴い、市内(磯部、新磯野1丁目、3丁目-5丁目、新戸、相武台及び相武台団地を除く)の市外局番が「0427」から「042」に、市内局番が「XX」から「7XX」に変更される。・1999年(11年)5月3日市立北市民健康文化センター(さがみはら北の丘センター)が開設される。・1999年(11年)7月20日電話番号の逼迫対策に伴い、市内(磯部、新磯野1丁目、3丁目-5丁目、新戸、相武台及び相武台団地)の市外局番が「0462」から「046」に、市内局番が「XX」から「2XX」に変更される。・1999年(11年)12月1日境川の河川改修に伴い、東京都町田市及び神奈川県大和市との境界の一部を変更し、市面積が90.41km2に減少する。・2000年(12年)4月1日保健所政令市に指定されたことから、相模原市保健所が開設される。・2000年(12年)5月29日人口が60万を超える。・2000年(12年)7月8日さがみはら男女共同参画都市宣言を制定する。・2000年(12年)10月28日さがみはら健康都市宣言を制定する。・2000年(12年)11月20日市が事務事業に「ISO14001環境マネジメントシステム」を導入、認証される。・2001年(13年)4月5日児童数減少に伴う市内初の市立小学校の統廃合を実施する。・市立北相武台小学校と市立磯野台小学校とが統合し、市立もえぎ台小学校が開校(校舎は北相武台小学校を使用)。・2001年(13年)4月21日市立総合学習センターが開設される。・2001年(13年)6月30日小児科医による休日・夜間急病診療が開始される。・2001年(13年)7月1日市が外部監査制度を導入する。・2001年(13年)9月29日市立杜のホールはしもと・市立橋本図書館が開設される。・2003年(15年)4月1日中核市に指定される。・2003年(15年)4月1日「相模原メヂカルセンター」及び「相模原南メヂカルセンター」が「相模原メディカルセンター」及び「相模原南メディカルセンター」に改称される。・2003年(15年)10月11日青山学院大学相模原キャンパスが淵野辺に開校する。・2003年(15年)12月1日市内のバス路線が大幅に再編される。・これに伴い、33系統・51バス停留所が廃止、4系統が新設、既存の6系統が大幅増発となる。・2004年(16年)2月1日上鶴間地区の一部で住居表示を実施、上鶴間本町が新設される。・これにより、米軍基地を除く市内の上段部分の住居表示は全て完了となった。・2004年(16年)11月1日小田急線小田急相模原駅北口市街地再開発事業が着工する。・2004年(16年)11月20日市制50周年。・2004年(16年)12月1日境川の河川改修に伴い、東京都町田市との境界の一部を変更し、市面積が90.40km2に減少する。・相模原市民16世帯41人が東京都町田市民となる。・2005年(17年)7月13日市内公共施設(60ヶ所)にAED(自動体外式除細動器)を配置する。・2006年(18年)1月30日コミュニティバス実証運行を開始する。・交通不便地区における高齢者等、移動に制約のある市民の生活交通を確保するため、市が主体となって計画。運行業務は相模神奈交バスに委託し、2年間を期限として実験的に実施。経路は、JR東日本橋本駅南口-北の丘センター-北総合体育館-相模川自然の村までの約7kmで、所要時間は片道約30分。運行本数は、上り下りとも8時台-18時台まで、1時間に1本ずつ運行される。・2006年(18年)3月20日津久井郡津久井町、津久井郡相模湖町を編入合併する。旧町の各区域に地域自治区を設置。市面積が244.04km2となり、面積規模で県内第2位になる。旧津久井町の姉妹都市であるカナダのトレイル市と継続して友好都市を提携する。・2006年(18年)4月1日市立環境情報センターが開設される。・2006年(18年)4月1日市が設置した文化施設・福祉施設・体育施設に指定管理者制度を本格的に導入する。・2006年(18年)5月1日日米安全保障協議委員会で相模総合補給廠の一部返還等が基本合意される。・2006年(18年)10月1日市コールセンターが開設される。・2007年(19年)3月11日津久井郡藤野町、津久井郡城山町を編入合併する。旧町の各区域に地域自治区を設置。市面積が328.84km2となる。人口が合併特例の政令指定都市昇格要件70万人を超える。・2007年(19年)4月1日政令指定都市移行を視野に入れて市組織に局制が導入される。・2008年(20年)4月23日さがみはら新都心整備構想を発表する(相模総合補給廠一部返還後の跡地利用計画)。・2009年(21年)10月23日相模原市が政令指定都市に昇格することが閣議決定される。・2009年(21年)12月21日区名が正式に決定する(緑区、中央区、南区)。・2010年(22年)4月1日政令指定都市に正式に移行(日本国内19番目)。それに伴い、市内全域において郵便番号が「228-08xx」及び「229-xxxx」から「252-0xxx」に変更される。・2010年(22年)12月1日境川の河川改修に伴い、東京都町田市との境界の一部を変更し、市面積が328.83km2に減少する。・2011年(23年)5月15日区ごとのシンボルカラーおよびシンボルマークが発表される軍都計画相模総合補給廠の正門(西門)相模原は東京から近く地価の安い平坦地が広がっていたことから、1930年後半以降、陸軍士官学校をはじめとする陸軍施設があいついで移転・開設されてきた。養蚕を主とする畑作農村から軍事都市への急速な変貌に対応するために神奈川県が主体となって区画整理事業に着手した。1939年(14年)にまとめられた相模原都市建設区画整理事業では、当時の相原村(小山・清兵衛新田・橋本)、大野村(上矢部・矢部新田・淵野辺)、上溝町(上溝)、大沢村(下九沢)にまたがる535万坪(約17.7km2)の区域に10万人の人口を想定した壮大な都市計画が行われた。造兵廠西門と上溝とを結ぶ街路を縦の軸とし、これと直交する幅の広い街路を横の軸として計画的に街路が配置され、両軸となる街路の交差点付近には中央公園が計画された。区域内は住居地域345万坪(約11.4km22。1人当たり50坪)、商業地域35万坪(約1.2km2。1人当たり30坪)、工業地域(軍事施設を含む)175万坪(約5.8km2)に分けられ、推計人口10万のうち小学児童を約1万4千人弱と想定して小学校を14校、中等学校が3校整備されることとなっていた。また中央公園をはじめとして区域内の公園用地として約18万坪(約0.6km2)があてられていた。・相模陸軍造兵廠は本来、北側の境川をはさんで町田街道に面した門を正門として敷地内北部に管理機能を集中していた。戦後この施設を相模総合補給廠としている米軍は西門を事実上の正門として使用している。この都市計画は若干の変更の上、1940年(15年)に内務省から公示されて事業が着手されたが、間もなく始まった第二次世界大戦(太平洋戦争)により工事は停滞し、幹線街路網の整備が進んだところで敗戦を迎えた。一時中断された区画整理事業は戦後も継続されて1950年(25年)に完了した。また水道の整備も戦争末期の1945年(20年)春にはおおむね完了した。敗戦によって軍都の建設には挫折したが、1960年代以降の急激な都市化の基盤となったのはこの事業によって整備された街路網と水道設備であった。計画の中で横の軸とされた街路は現在国道16号として市内を貫く幹線道路となっている。また縦の軸とされた街路は市役所前通りとして戦後桜並木が整備され、市を代表する顔となっている。これに対して南部の小田急線沿線はこの都市計画の対象区域とはならず、戦後の自然発生的な住宅の建設によって都市化が進行した。無計画に進められた宅地化によって狭く複雑な街路網を擁する区域も少なくなく、軍都計画区域と著しい対照を見せる。相模原市の膨張や交通量の増大によって国道16号をはじめとする幹線街路での交通渋滞が目立つなど、1940年代に行われた都市計画の限界が現れてきているが、半世紀にわたって急激な都市化を支え続けてきた事実からして軍都計画による区画整理事業の先進性がうかがえる。相模原町の発足軍都計画の進展とともに、軍の強力な後押しもあって相模原一帯を合併して一大市を建設する気運が盛り上がった。その過程では、隣接する東京府町田町との合併も話題に上った(陸軍では、上鶴間の原町田陸軍病院(のち相模原陸軍病院と改称)や淵野辺の原町田憲兵隊など、相模原を原町田と一括りにすることが多かった)が、府県境を越えた合併は当時でも困難なことが多く、高座郡北部の9町村(相原村、上溝町、大野村、大沢村、田名村、麻溝村、新磯村、座間町、大和村)が合併の対象となった。対象地域内では軍都計画地域を中心とする北部(相原・上溝・大沢・田名)と陸軍士官学校を中心とする南部(麻溝・新磯・座間・大和)の間で意見が対立し、特に座間町と大和村では合併反対の意見が強かった。北部5町村と南部4町村による別個の合併も俎上に上ったが、北部の淵野辺地区が軍都計画地域に属する一方で南部の上鶴間地区に士官学校や通信学校、陸軍病院などをかかえる大野村(個別合併案では北部5町村に含まれた)は村が分断されることを恐れて9町村での合併を強く望んだ。軍の強い要請によって座間町は9町村合併の容認に傾いたが、大和村では意見の集約が間に合わず合併から離脱し、大和村を除いた8町村による合併となった。合併後の新市名として「相武台市」「相武市」「相模市」「相模原市」などがあがった。このうち1937年(12年)に移転してきた陸軍士官学校にちなむ「相武台」は、士官学校移転に際して座間村(当時)が新磯村との合併を持ちかけたときに「座間町」への吸収となることを恐れた新磯村側が提案した呼称でもある(この合併は両村の意見が合わず、座間村が単独で町制を施行した)。「相武台」には陸軍士官学校が天皇から士官学校に下賜された呼称であるとして反対し、最終的に選ばれたのが「相模原市」であった。市とするにあたっては合併当時の対象地域に市街地がほとんど形成されていないことから内務省の承認が得られず、将来の発展による市制施行を期待しながら、1941年(16年)4月29日に8町村の合併によって高座郡相模原町が発足した。戦後、軍の圧力がなくなると当初から合併に消極的であった旧座間町では離脱の動きが強まり、1948年(23年)9月1日に旧座間町の区域が分立して座間町が再置された。残りの区域で「の大合併」の最中の1954年(29年)11月20日に市制を施行して相模原市となった。すでに大規模合併を終えていた相模原市では「の大合併」による市域拡張は行われていない。中核市昇格1994年(6年)に地方自治法が一部改正されて中核市制度が創設され、翌1995年(7年)の施行により中核市の指定が始まったが、相模原市は人口要件(30万人以上)は満たしていても面積要件(100km2)を満たさなかったため、長らく中核市指定を受けられなかった。しかし、2002年(14年)の改正で人口50万人以上の市の面積要件が削除されたため、2003年(15年)4月1日に中核市に指定された(なお、面積要件は2006年(18年)の改正で人口にかかわらず全面的に撤廃された)。その後、2006年3月20日に津久井町と相模湖町を編入し、更に2007年3月11日に城山町と藤野町を編入したことにより、横浜市に次ぐ神奈川県2位の面積となった。の大合併緑区相模湖総合事務所(旧相模湖町役場)2002年10月、津久井郡に属する全4町(城山町・津久井町・相模湖町・藤野町)において住民アンケートが実施され、4町全てで合併に肯定的な結果が出た。城山・津久井両町では相模原市との合併を望む回答が多かったのに対し、相模湖・藤野両町では東京都八王子市との越境合併を望む回答が多かったが、八王子市は両町の打診に対し、合併特例法期限内の越境合併は困難と回答した。2002年11月、公益社団法人津久井青年会議所が中心となり、住民発議による津久井郡4町による法定合併協議会の設置を求める署名運動を実施し、有権者の50分の1を大きく上回る6418人(4町合計)の署名を集め、2003年1月に各町に請求した。この請求は、県内初となる複数市町村からの同一内容の発議であったが、この法定協議会設置議案を城山・津久井両町議会が否決(相模湖・藤野両町は可決)し、この議決により、津久井郡4町での合併は事実上消滅した。2003年7月、相模原市と4町が市町村合併に関する研究部会を設置、4町は相模原市に合併協議を申し入れた。・なお、津久井地域4町の人口における年齢の比重(若年層が少なく、高齢者が多い)と開発しにくい土地柄から旧相模原市民には合併のメリットは合併特例を利用した政令指定都市移行が可能になる程度でほぼ無に近く、未だに合併に反対を唱える住民がいる。相模原市が2004年11月8日-11月17日に、旧市民1万人を対象にして郵送形式で実施した「相模原市と津久井地域の合併に関する市民アンケート」(有効回収率:35.8%)では、合併の是非は、「合併するべきである」15.3%、「合併することもやむをえない」30.5%で、「合併するべきでない」12.3%、「できれば合併するべきでない」18.8%と、合併反対は3割強であった。「どちらともいえない」は17.3%だった。小川勇夫市長は津久井地域との合併を巡り、住民投票を実施せず、このアンケート調査結果をもとに津久井郡4町との合併を推進した。2003年12月になり、藤野町が任意合併協議会への不参加を表明したことから、4町は合併協議の申入れを撤回したが、翌2004年1月に城山・津久井・相模湖3町が相模原市に合併協議を申入れ、2004年4月に任意協議会の「相模原・津久井地域合併協議会」を設置した。藤野町を除く3町は相模原市との合併を目指すこととなった。しかし城山町では町長が合併への慎重姿勢を見せたため、津久井・相模湖両町は先行して相模原市との「飛び地合併」を目指すこととなった。相模湖町では2004年11月に行われた5市町での合併の是非を問う住民投票の結果、反対票がわずかに賛成票を上回ったが、町長は合併協議の継続を表明し、2005年2月に3市町で法定協議会の「相模原市・津久井町・相模湖町合併協議会」を設置した。2005年3月15日に3市町は合併協定書に調印し、各市町議会、神奈川県議会の可決、総務大臣の告示を経て、2006年3月20日に津久井町・相模湖町は相模原市に編入され、「の大合併」期における神奈川県内初の市町村合併となった。一方、藤野町では2004年6月に行われた住民投票の結果、賛成多数となったことから、2004年8月に相模原市に合併協議を申入れ、2005年4月に相模原市と2市町での法定協議会「相模原市・藤野町合併協議会」を設置した。同町議会は合併に慎重姿勢であったが、2005年7月の町長選で合併推進派の町長が誕生したことで合併協議が加速し、合併方式を相模原市への編入、合併期日を2007年3月11日として、2006年1月26日に合併協定書に調印した。その後、両市町議会、神奈川県議会の可決を経て、2006年8月7日の総務大臣告示により合併が法的に確定した。城山町も住民からの直接請求を受け、2005年4月に津久井町・相模湖町を含む枠組みでの法定協議会「相模原・津久井地域合併協議会」を設置したが、城山町長(当時)は2005年6月に議会答弁で単独町制の継続を表明し、さらに2005年7月の協議会では43対1で合併目標期日が設定された事に反発して協議会副会長職の辞任届を提出し退席した(反対者は城山町長1人で、辞任届は会長預かり)。その結果、協議会は2005年11月に休止へ追い込まれ、相模原市・津久井町・相模湖町の合併に合わせて廃止された。2005年11月、城山町で合併推進を求める住民による解職請求が行われ、2006年2月19日に行われた住民投票の結果、賛成多数で町長の解職請求が成立、2006年2月26日には合併に関する住民投票で賛成票が多数となり、2006年3月19日の町長選では合併推進派の町長が当選した。2006年3月30日には城山町長より合併協議会設置の申し入れがあり、藤野町との同時合併を目標とする合意書に調印、両市町議会の可決を経て2006年4月12日に相模原市と2市町での法定協議会「相模原市・城山町合併協議会」を設置した。任意協議会での協議結果および他の合併協議会における協議内容を踏まえた上で迅速な議論を進めた。3回にわたる協議で協定内容が全て調ったことから2006年6月7日に合併協定書に調印、両市町議会、神奈川県議会の可決を経て2006年11月2日の総務大臣告示により合併が法的に確定した。これにより藤野町と城山町は2007年3月11日に相模原市へ編入される事が確定し、紆余曲折を経た津久井郡4町との合併が完結することになった。2006年11月2日には、相模原市・城山町・藤野町の公共施設等に、新市の地図が描かれたPR看板が設置された。キャッチフレーズは、「新・相模原市誕生ともに築こう新たな未来」である。「相模原市・城山町合併協議会」及び「相模原市・藤野町合併協議会」では、新市をPRすることを目的に、エコーはがきを5万枚作製し、相模原市・城山町・藤野町に所在する郵便局で2007年2月1日に発行した。また、日本郵政公社南関東支社では、2007年3月9日-6月8日の期間、オリジナルフレーム切手「新・相模原市誕生」を、市内に所在する郵便局で5,000部販売した。さらに、相模原市では、日比野克彦をビジュアルプロデューサーに、『新「相模原市」新宿メガキャンペーン』を2007年3月10日-3月25日の16日間、新宿で実施した。新宿は鉄道3線(JR東日本・小田急・京王)で相模原市と都心との結節点であり、同駅は日本一の乗降客数を誇る。キャンペーンの目的は、相模原市の知名度の向上とイメージアップである。2007年3月11日に城山・藤野両町が相模原市に加わり、合併特例の政令市移行要件とみられる人口70万人を超えた為(法定人口:701,568人)、政令指定都市の候補市になった。また、小川勇夫市長は政令指定都市を目指すことを表明したものの、2007年3月8日に体調不良を理由とする辞職願が助役の代読により表明され、2007年3月21日、肺炎のため逝去した。2007年4月22日の選挙で、合併特例法の期限内での政令市移行を目指すことを公約とし、小川から後継指名を受けていた前助役の加山俊夫が市長に選出され、2010年3月までの政令市移行を目指すことになった。政令指定都市移行へ・2006年10月23日「2007年度予算編成方針」について記者会見を行う。・2007年度重点施策に政令指定都市の調査、研究として、政令指定都市に関する調査委託が盛り込まれる。・具体的には、民間のシンクタンクに調査委託するほか、他の政令指定都市を参考にしながら、市の実態、拠点としての都市機能など具体的に研究していく見通し。今後は、研究結果を定期的な会議を通して意見交換するなど、共同で検討していくという。・2006年12月22日相模原市自治会連合会が、「政令指定都市への移行実現について」の相模原市長への要望及び相模原市議会議長への陳情を行う。・2006年12月22日「2007年度行政組織について」報道提供を行う。・政令指定都市への移行を視野に入れた局制の導入による庁内分権の推進等。・2007年1月1日市広報紙及び市Webサイトに掲載された、小川勇夫相模原市長の「年頭のごあいさつ『新市まちづくりスタートの年』」より・「新しい総合計画の策定に向けた取り組みとともに、政令指定都市への移行に向けた検討を進めてまいります。」とのコメントあり。・2007年1月24日相模原商工会議所が、「政令指定都市の実現について」の相模原市長への要望及び相模原市議会議長への陳情を行う。・2007年1月29日「2007年度一般会計当初予算案」を発表する。・政令指定都市移行に関する調査費2,635万円を盛り込む。目的は、市の都市形態や機能などを全国の自治体と比較し、自らの長所や課題を探る。調査は、国の外郭団体「地方自治研究機構」に委託し、都市の拠点性や商業施設の集積度、財政力といったデータを集積し、他都市と比較・検証する。・2007年1月30日相模原市農業協同組合が、相模原市長に対し、政令指定都市の実現に向け取り組むよう要望書を提出する。・2007年1月31日小川勇夫相模原市長が市議会3月定例会の施政方針演説で、2010年3月末までの政令指定都市移行を目指すと正式に表明する。・「政令市推進課」を2007年4月1日付で新設。・2007年2月15日相模原市が市議会3月定例会で、政令指定都市への移行には、少なくとも150-170人程度の職員増が必要との見通しを明らかにする。・政令指定都市移行に伴い、児童相談所、精神保健福祉センター、国県道維持管理等の機能を県等から引き継ぐため。・2007年2月15日松沢成文神奈川県知事が県議会2月定例会の所信表明演説で、「相模原市長は去る1月31日に、今回の合併を契機に、22年3月までに政令指定都市への移行をめざすことを表明されました。これは、自らの地域のことは自らの意思で決定し、その財源、権限と責任も自らが持つという、地域主権の理念にかなったものであり、県といたしましても、市からの要請に応じて実現に向け協力をしてまいります。」と述べ、政令指定都市移行を支援する方針を表明する。・2007年3月8日市議会3月定例会の本会議第8日(最終日)、政令指定都市移行に関する陳情(相模原市自治会連合会、相模原商工会議所及び相模原市農業協同組合)が採択される。・2007年4月23日前日に行われた選挙の結果、故小川勇夫前市長より後継指名を受けていた加山俊夫が市長に当選し、引き続き2010年3月までの政令市移行を目指すことになった。・2007年5月16日加山俊夫市長が菅義偉総務大臣と面会し、政令指定都市移行に関する理解と指導を求める。・2007年5月22日加山俊夫市長が松沢成文神奈川県知事に対し、政令指定都市移行への支援を正式に文書で要請する。・2007年5月23日市役所に政令指定都市推進本部会議を設置し、移行に向けた本格的な取り組みを開始する。・2007年5月31日加山俊夫市長が政令指定都市移行に向けた取り組みについて記者会見を行う。・政令指定都市ビジョンを2007年度中に策定する。・区制は、2007年度に行政区画、区名、区役所の位置・機能について庁内で検討のうえ、市民意見を反映させる。2008年度に行政区画等審議会から答申を受け、区画・区名を決定し、区役所設置の準備を開始する。・神奈川県からの事務移譲に関する協議は、県市連絡会議を設置し、2008年春の基本協定締結を目指す。・2007年7月26日政令指定都市移行に関する県からの事務移管について協議を行うため、第1回神奈川県・相模原市政令指定都市移行連絡会議が開催される。・2007年8月8日産業経済団体をはじめ、教育・文化、保健・医療、福祉、労働など各分野からの民間団体を母体として相模原市政令指定都市推進市民協議会を設立する。・2007年9月25日相模原市が市議会9月定例会の政令指定都市に関する特別委員会で、行政区の区割り検討試案を明らかにし、3区制2案と、4区制2案の計4案を試案し区役所位置も想定している。・3区制2案・1-1旧相模原市を南北へ2区に分け、旧津久井地域を1区とした区分け。・1-2橋本地区を除いた旧相模原市を南北へ2区に分け、旧津久井地域と橋本地区を加えた地区を1区とした区分け。・4区制2案・2-1旧相模原市の3拠点を中心に3区に分け、旧津久井地域を1区とした区分け。・2-2橋本地区を除いた旧相模原市の2拠点を中心に2区に分け、橋本地区と旧津久井地域の旧城山町を加えた部分を1区に分け、残りの旧津久井地域(旧津久井町、旧相模湖町、旧藤野町)を1区とした区分け。(4区制の場合、旧相模原市の3拠点中心に3区に分ける時は、公共施設が集まる橋本、相模原、相模大野の3拠点を基準に区分けする場合である。)・2007年11月12日県市連絡会議幹事会議が開催される。・2008年1月28日-2月9日相模原市が「政令指定都市に関する市民説明会」を市内26ヶ所で開催する。・2008年2月4日第2回県市連絡会議が開催される。・2008年3月25日第3回県市連絡会議が開催される。・2008年4月1日-21日行政区画等審議会の委員を募集。・2008年5月29日第4回県市連絡会議が開催される。・2008年5月31日相模原市行政区画等審議会の初会合が開かれる。(審議会委員は、推薦委員、学識経験者、一般公募市民の計23名)・2008年6月17日第2回行政区画等審議会が開かれ、区割り案が1-2と2-2に絞られた。・2008年7月1日第3回行政区画等審議会が開かれ、区割り案1-2(3区制)を採用する事に決定した。・2008年7月15日第4回行政区画等審議会が開かれ、区割り案1-2(3区制)を採用する答申案の文章を一部修正のうえ答申する事を決めた。・2008年7月18日行政区画等審議会会長は、区割り案1-2(3区制)の採用を、加山市長へ正式に答申した。・2008年9月2日政令指定都市移行に係る県協議の状況及び財政収支の見通しについて発表される。・2008年9月10日第5回県市連絡会議が開催される。・2008年9月19日行政区画の編成案が決まる(区割り案1-2の3区制)。・A区:橋本、大沢、城山町、津久井町、相模湖町、藤野町・B区:大野北、田名、上溝、本庁・C区:大野中、大野南、麻溝、新磯、相模台、相武台、東林・各区の区域は旧相模原市域は本庁及び出張所の単位・2008年10月15日区名案の募集を開始(2008年11月14日まで)・2008年11月18日政令指定都市移行に係る県市の基本協定を締結。・2008年11月25日第6回行政区画等審議会が開かれ、区名の候補が選定される。・A区:北区、西区、緑区、けやき区、みどり区・B区:中央区、中区、ひばり区、桜区、さくら区・C区:南区、東区、あじさい区、ひばり区、光区・「簡潔さ」「親しみやすさ」などを基準に、委員らが各区五候補を絞り込んだ。・「橋本」「津久井」「大野」など、特定の地名を連想させる区名は候補から外された。・2008年12月15日相模原市民及び、相模原市内の勤務者・通学者を対象に、各区5候補の区名意向調査を開始。(2009年1月14日まで)・2008年12月20日市議会12月定例会の本会議で、相模原市の政令指定都市の実現に関する意見書を可決する。・2009年1月23日区名意向調査の結果が明らかになり、最多得票がA区は北区、B区は中央区、C区は南区である。・2009年1月26日第7回行政区画等審議会が開かれ、A区は緑区、B区は中央区、C区は南区とする答申案をまとめる。・A区の名称については、緑区とみどり区の合計数が北区の投票数を上回る事や、区内に水源地(津久井湖、宮ヶ瀬湖など)を有するため水源地としてふさわしい名称として選ばれる・2009年2月4日行政区画等審議会会長はA区を「緑区」B区を「中央区」C区を「南区」とする答申案を加山市長へ正式に答申した。・2009年2月6日市議会臨時会で、市民団体が制定を求めていた政令指定都市移行の是非を問う住民投票条例案を否決する。・2009年3月24日県議会2月定例会の本会議で、相模原市の政令指定都市の指定に関する意見書を可決する。・2009年3月31日県議会4会派が共同で、相模原市の政令指定都市への移行に慎重な対応を求める要望書を内閣総理大臣と総務大臣に提出する。・2009年4月19日当日付毎日新聞報道で、A区の名称について「緑区」ではなく「北区」にするよう、A区となる地域の住民からの陳情などが相次ぎ、A区の名称を市庁内で再検討していることが明らかとなった。[2]・2009年5月2日当日付毎日新聞報道で、相模原市が市民団体「相模原市政令指定都市推進市民協議会」に対して補助金を支出していたことについて住民監査請求をしていた件について、「補助金支出に裁量権の逸脱、乱用があるような事実はうかがえない」として請求を棄却したことが報道された。[3]・2009年6月14日当日付毎日新聞報道で、A区となる地域住民から出されている「A区を北区とすることについて」の陳情を不採択にし、審議会の答申通り「緑区」とする見通しが明らかとなった。[4]・2009年7月3日相模原市と総務省との事前協議がまとまったため、松沢成文知事が相模原市の政令指定都市移行実現を求める要望書を佐藤勉総務大臣宛てに提出する。(加山俊夫市長などが同行)・2009年7月14日政令指定都市推進本部会議で、行政区の名称(区名)を、行政区画等審議会の答申通り(A区は緑区、B区は中央区、C区は南区)とする事や、津久井地域の地域自治区設置期間の変更及び、住所表記について決まった。(旧町名を冠した地域自治区の名称が住所表記から外れることになった。)・2009年7月17日市民団体が相模原市の政令指定都市の指定見送りを求める署名を総務大臣宛てに提出する。・2009年10月2日原口一博総務大臣が2010年4月1日より政令指定都市に移行することを市長と県知事に通知。・2009年10月5日市民団体が総務大臣の「相模原市の政令指定都市移行」指示に対する抗議文書を総務大臣宛てに提出する。・2009年10月23日 鳩山由紀夫内閣がこの日の定例閣議で相模原市を2010年4月1日より政令指定都市に移行させる閣議決定を行った。・2009年10月28日当日付官報で、指定都市の指定に関する政令の一部を改正する政令(政令第251号)が公布され、政令指定都市への移行が正式に決まった。・2009年12月21日市議会12月定例会の本会議で、「相模原市区の設置等に関する条例」が可決され、区の名称(緑区・中央区・南区)・区域等が原案とおり決定する。・2010年4月1日政令指定都市に移行。人口相模原市と全国の年齢別人口分布(2005年) 相模原市の年齢・男女別人口分布(2005年)■紫色―相模原市■緑色―日本全国 ■青色―男性■赤色―女性相模原市(に該当する地域)の人口の推移総務省統計局/国勢調査・平均年齢41.06歳(男性平均年齢:40.19歳、女性平均年齢:41.96歳)・年少(0-14歳)人口比率13.9%・生産年齢(15-64歳)人口比率70.0%・老年(65歳-)人口比率16.0%※全て2007年1月1日現在市政市長と市議会については、従来統一地方選挙の後半日程において改選されてきたが、政令指定都市に移行したため、県知事・県議会と同じ前半日程で執り行うことになった。このため、2011年の選挙から、神奈川県知事・県議会・市長・市議会が同日に投開票されるという全国的にも稀な“クヮルテット選挙”となり、市選挙管理委員会は、4つの選挙に関する事務を同時にこなすという難題を背負うことになった。なお、知事・市長が任期半ばで辞職(失職)」GFDL
  • PAGE TOP